a2480213325_10.jpg  一時期アメリカ、イリノイ州のインターネットラジオを聞いていたときに耳に入ってきた。バンド自体はオレゴン州ポートランドの出身である。ポートランドといえば、何よりもエリオット・スミスがすぐに浮かぶが、このDoloreanもエリオット・スミスへのトリビュートアルバムでThe Biggest Lieをカバーしている。

 奏でる楽器がアコースティック主体だけに、ややもするとカントリー音楽っぽい雰囲気もあるが、自然の風や土の臭いはしない。むしろ静物画のような、一枚のスケッチ画のような印象を与える演奏である。何よりも全体のアンサンブルのよさが、絵画について話すときの均斉や構成と言ったことばを喚起させるのだろう。

 弦楽器が主体であるとはいえ、このバンドの芯にあるのは、カントリーでもないし、フォークミュージックでもない。ヨ・ラ・テンゴがフォーク・ミュージックとは呼びにくいように。確かに生音が大切にされてはいるが、彼らの音楽の特徴はそれらの音の「反響」にあるように思う。ロックバンドが室内楽をしているかのように、彼らの音はこだまにつつまれているようなおぼろげなところがある。

 たとえば2曲目Put You To Sleepでは、ペダル・スティールとオートハープが演奏されているが、それぞれの音にわずかなエコーがかけられ、音像が広がってゆく印象を受ける。こうした音響処理がこのバンドの特徴的な音を作っていて、そこがカントリーやフォークといったジャンルとは異なる点だろう。細かい点だが、8曲目のラストは、アコースティックギターに、エコー処理された口笛が重ねられ、さらにシンセサイザーの音が重なる。こうした生の音と人工的な音が溶け合うところに、音像の特色がある。

 ヴォーカルにはエコーはかけられず、素朴な声が聞ける。だがバックヴォーカルと重なってハーモニーが生まれると、声が幾重にも結び合わされ、静かな響きを伝えてくる。こうした繊細なヴォーカルがアルバム全体に静謐な印象を与えている。

 デビュー以来、15年で4枚程度しかアルバムを出しておらず、本当に寡作だが、それでも丁寧な音作りをしているからこそ、どの作品もきっと長生きするに違いない。これで人生をやっていけるのだろうかと余計な心配をしたくなるが、たとえ多くの人が聞くわけではなくても、彼らの音楽は、出会った人の心の中にゆっくりと沈んでいき、ふとしたときに、口をついて再び生まれてくるような永遠の美しさをたずさえている。

天童荒太『ムーンライト・ダイバー』(2016)

 震災・被災の出来事をどのように小説にするか。いや、そもそもなぜ現実の出来事を題材に選ばなくてはならないのか。たとえ書いたところで、小説は何の役に立つのだろうか。天童荒太を読んでいると「職業としての小説家」というイメージが浮かぶが、職業であるならば、それは少なくとも社会のなかで何らかの役割をつとめ、一定の貢献を果たすということになろう。小説家の社会的意義に対して、天童荒太の謙虚さは際立つ。小説家はあらゆる社会的制約から自由だなどと悪びれもせず豪語する人間からは最もほど遠い。また、作家は本来教祖でも、革命家でもない。人々を真理に導くとか、自己の主張によって社会が変革されるとか、幻のような誇張もすることはない。

 読者に教えを垂れる、あるいはこうしたら読者は心地よいだろう、などといった思い込みは最も厳しく自己に戒めているがこそ、この小説は、社会の絆の強さを感じさせようとか、前に進んで行こうとか、スローガンのたぐいとは無縁である。もし「希望と勇気がわいてくる」としたら、それは感動の押し売りだとして、天童荒太は厳しく退けるのではないか。

 では何のために書くのか。それはひとことで言えば「寄り添う」ためであろう。「寄り添う」のは、ときにその相手が絶望の闇の中に身を投じてしまうのをかろうじて押しとどめるため、また極端に明るくふるまうことの過剰さに対して、悲しんでいてもいいことを伝えるためであろう。ややもすれば極端へと走りがちな相手に寄り添うことで、そのあわいにおいて、なんとか正気を保つことができるのだと気づいてもらうため、そのための「寄り添い」である。

 『ムーンナイト・ダイバー』とは、月の明かりだけを頼りに、立ち入り禁止になっている原発近くの海域にもぐり、遺品を回収するダイバーを指す。そのダイバーが主人公の瀬奈舟作。この遺品回収の話をもちかけたのは、文平という初老の船乗り。そして、海から遺品を探し出す計画を思いついたのは県の職員である珠井準一である。珠井は遺品の回収を文平と舟作に依頼し、遺品とひきかえに謝礼金を渡す。当初はひとりの計画が、親しい人々に知られることで、会員を募る会の形式となった。禁止海域にもぐって遺品を取ってくるということの性質上、会の運営には様々な規則がある。ダイバー本人に会うのは珠井のみ。金目のものはどんなささいなものでも回収しない、等々。

 小説の人物像は類型的である。主人公の瀬奈舟作は、漁師だったが、震災と原発事故後、千葉に家族で移り住んだ。両親と兄を亡くした罪悪感を抱きながら寡黙に生きる人物である。文平は、多額の補償金を手に入れたのち遊興にのめり込んで挙げ句の果てに蒸発した息子を持ち、この計画でシビアにお金を稼ごうとしている。珠井は公務員という職業さながら手堅く慎重な人物である。

 そしてもうひとり、時の経過を象徴する人物として、眞部透子という人物が現れる。透子は夫を震災で失くすが、今だにその死を受け入れることができない。夫が死んだという確証もない以上、死を認定することはできないと思いつつも、別の男性からプロポーズをされ、5年目を人生の節目として、新たな生を選択するべきかどうか悩む。そして舟作に夫のつけていた指輪を探さないように依頼する。その気持ちは、はっきりと割り切れるものではない。

「(...)わたしは、あの海から何を期待するのか。願っているものは何なのか、あらためて考えねばなりません。言い換えれば、彼に生きていてほしいのか...それとも」
(...)
「それとも、彼に死んでいてほしいのか」(p.173.)

 このことばからわかるのは、彼の生死の事実ではなく、自分の「~でいてほしい」という願望である。つまり自分の心との向き合い方を苦悩しながら模索しているのである。この揺らぎ、ためらい、その振幅を小説は丁寧に写しとってゆく。

 このダイバーの仕事を請け負うまで、舟作を捉えていたのは「生きている実感のなさ」である。復興のかけ声が巷にあふれても、再び漁にでる気にはなれない。なぜ生き残ったのが兄ではなく、自分だったのか、その罪悪感を心の根底に抱きつづけている。それが重い碇となり、新たな生へと歩み出すことを阻んできた。一方、その生の乏しさと両極をなすのが、この仕事を始めてからの肉を食う、女の体をもとめるという、今度は極端なまでの生の動物的衝動である。それはひとつの暴力的な発作とも言える。相手を食いつくし、自分の圧倒的な支配下に置こうとする昏く渦巻く欲望である。この死への引力と過剰な生への引力の間に引き裂かれているのが、舟作の5年間である。

 だが舟作は、シーズンの最後に潜るとき、死の衝動に突き動かされる。それは海中に浮いている、透子の夫の薬指に違いない指の骨とそれについていた指輪を見つけたときである。制限時間を知らせるアラームの音にもかかわらず、舟作は、その指輪を追い求めようとする。そのとき、彼は左肩に誰かの手を感じる。そして声を聞く。

戻れ、戻りなさい。
諭すように、左肘をつかまれ、後ろに引かれる。腰のところにも手が回される。
 何をしてる、せっかく助かった命なんだぞ、おまえを待ってる人がいるだろう。
 舟作は振り返る余裕もなく、ともかく流れから外れるために、岸側にむかって懸命にフィンを振った。やがて強い海流から外れる。わけがわからぬまま、後ろを振り返った。
 こまかい粒子が舞う潮の流れの吹雪の彼方に、遠ざかる人影があった。
 両親に似た影、兄の大亮に似た影。見知らぬ人の影もある。子どもの影、年寄りの影、男の影、女の影...。人々の影は、すぐに吹雪の奥へと消えた。(p.226.)

 死者の幻影によって、舟作は一命をとりとめる。そしてあらためて、私を支えてくれる死者たちを心に住まわせる。彼らは亡くなった。舟作は「どうか、安らかにお眠りください」と願い事をする。だが、死者たちと私の関係は死なない。たとえその人が亡くなったとしても、その人との関係は不死なのだ。この不死性こそが、舟作を生へとゆっくりと回復させるのではないだろうか。

 それを自覚したとき、舟作は、もはや死への引力と過剰な生への引力のどちらにも引き寄せられることはない。その日常は、震災以前の日常とは違うし、もはや元通りになることはない。私たちは、今後「大切な何かをあきらめて」(p.236.)生きざるをえない。私たちは喪失を抱きながら生き直す。だが死者からの支えを実感したとき、私たちは静かに自らの生を確証する。

 ムーンライトとは、光と闇のあわいにあるおぼろげな明るさの象徴ではないだろうか。私たちの日常はきっとそんなおぼろげな明るさにかろうじて照らされながら生きるものなのだろう。だがそのおぼろげなあわいにこそ、私たちは正気を保つ根拠を見つけなくてはならない。