是枝裕和『歩くような速さで』(2013)

 是枝裕和のエッセイ集である。エッセイと書くと軽めの読み物という印象を与えるかもしれない。事実、使われていることばは平易で、コラムと言ってもよいほどの、主に新聞に連載した、小さなテキストが収められている。でも、ここには是枝裕和という人がどんなふうに育ってきて、何に価値をおいて自らの立ち位置を定め、なぜこういう映画を作ってきたのか、が飾り気なく書かれていて、これを読んでいると、自分の子ども時代と重ねあわせたり、映画のあるシーンを思い出したり、そして今現在の社会で、自分たちがどう振る舞って生きてゆくべきなのかを深く考えさせられる。

 是枝監督は、この本の冒頭と、終わりに近い文章で一見すると矛盾に思えることを書いている。物語についてである。

 まずは、『そして父になる』について。

そして、こうも考えた。「赤ちゃん取り違え事件」というセンセーショナルな出来事をプロットに巻き込んだときに、恐らく観客の視線や意識は、夫婦がどちらのこどもを選択するだろうか? というその結論へ向かうだろう。しかし前のめりに「物語」を読み解いていくそのベクトルが強すぎると、物語の背後に息づいているはずの、彼らの失われるかも知れない「日常」がおろそかになる。それではいけない。あくまで日常の描写を豊かに、リアルにイメージしてもらうことが必要なのだ。「物語」より「人間」が大切だ。(p.4-5.)

 このように物語への留保を示す一方で、この本の終わり近くでは次のような言い方をしている。被災地を前にして。

しかし今、作品づくりを前提にあの被災地に立つことにはどうしてもためらいがあった。もし、そうしたら描くべき物語をそこに見つけるという階段を上って行かなくてはいけなくなる。たぶん僕はそれが嫌なのだ。この風景を、その風景を前に立ち尽くす人々を「物語化」して提示するのはまだ少し早いのではないかと思っている。かたくなに物語化を拒んでいるようなあの圧倒的な崩壊の前で、もうしばらく立ち尽くすべきだと思っているのだ。

 震災後の光景を前に立ち尽くしながら、作品にすることをためらっている自分の心境を綴った一文である。圧倒的な現実を前にして、拒否されているのはその現実を題材にした物語化である。作品づくりとは、本質的に物語を作ることである。物語を作ること、それは世界を描くことだろう。構成を定め、彩色を施すことだ。こうして描かれた世界は世界であって、もはや世界ではない。それは構成化され、彩色化された世界だから。この作品化の大前提となる物語化へのためらいが、是枝監督の創作意識の根本にあるように思う。

 そのように考えれば実は矛盾がとけてくる。作品は絶対に物語から逃れられない。それを前提とした上で、本人自ら言っているように、物語を読み解く時に用いられるベクトルの極端化に注意すること。それも「物語へのためらい」であり、是枝監督が自らにずっと課し続けてきた節制の効いた態度である。

 では物語とは何か。作品には出来事がある。そして出来事があれば、その結論がある。つまり物語とは、出来事に始まりと終わりを与える作業であり、さらに物語内部に入れば起承転結を与えることである。また物語には読み解きの作業が付随する。出来事が示され、その意味を読み解いていくときに物語度が高かまると言えよう。もちろん出来事だけではなく、人物の言動や心理を読み解くのも物語の機能だ。観客は物語の枠組みを与えられ、その中で、読み解きをたえず行いながら、始まりから終わりへと運ばれていく。ところが、被災地を前にして、是枝監督は、その物語の枠組みさえ、見い出せないと言っているのだ。

 だが、たとえ物語化によって作品が生まれたとしても、是枝監督はあくまでも物語へのためらいの態度を崩さない。それどころか、このためらいこそが作品を生む条件となる。

 是枝監督は、マイケル・ムーアの『華氏911』について、自分とはかなり隔たりがあるとして、次のように述べている。

実は『華氏911』は僕にとってドキュメンタリーではない。それがどんなに崇高な志に支えられていようと、撮る前から結論が先に存在するものはドキュメンタリーとは呼ぶまい。撮ること自体が発見である。プロパガンダと決別した取材者のそんな態度こそが、ドキュメンタリーという方法とジャンルの豊かさを生む源泉だからである。(p.150)

 結論が先に存在し、その結論に観客を運んで行く。ドキュメンタリーについて述べられてはいるが、作品を作ることが物語化である以上、濃淡はあっても、ドキュメンタリーも映画も本質的に違いはないだろう。事実、いかに多くの「芸術作品」が、戦意発揚を結論として人々を陥れ、プロパガンダとして効果的に用いられたことか。

 2014年2月15日付け朝日新聞のインタビューで是枝監督は次のように言っている。

昨年公開した「そして父になる」の上映会では、観客から「ラストで彼らはどういう選択をしたのですか?」という質問が多く出ます。はっきりとことばでは説明せず、ラストシーンを描いているから、みんなもやもやしているんですね。表では描かれない部分を自分で想像し、あの家族たちのこれからを考えるよりも、監督と「答えあわせ」してすっきりしたいんでしょう。

 作品を物語とすることにいかに慎重かがわかる。結論へと観客を導くのではなく、観客に映画の後の登場人物たちの生を想像させる。なぜなら是枝監督にとって大切なのは「物語」より「人間」だからだ。これから先も彼らは日常を生きていく。それはまた多くの物語を生み出すことになるだろう。逆に、単一の物語へと人々を誘導すること、それこそが現在の日本の政治状況だと是枝は主張する。だがその誘惑の力は強い。是枝監督は、福島の高校生たちが作った作品にさえ、それを見逃さない。彼らの作った作品が「絆」や「笑顔」を強調して締めくくられていたことに、「テレビで放送されているプロの大人たちの番組の悪影響」、すなわち「画一化されたルーティンな手法」を見て取るのだ(p.214.)。明快な紋切り型が、作品を支配するとき、作品は意味の単一化という貧しさへと陥る。

 では、こうした物語へのためらいによって、映画はどのような作風を持つのだろうか。ひとつは「不在なものの存在」、もうひとつは「日常のディテール」とまとめられるだろう。

・不在なものの存在

「そして父になる」は、前述したように、彼らが最終的に決めた選択は描かれていない。その意味ではラストが不在と言えなくはない。しかしだからこそ、私たちは、不在の「その後」を想像しはじめる。つまりは、不在であるもののありうる姿を作り上げてゆくのだ。

 是枝作品には不在なものの存在の感覚がよく描かれる。たとえば、家屋のなくなった庭一面の秋桜をみて、今は不在の「家族のこれまで」という過去、そして「もしかしたら引っ越す前とは違う形で続いたのかも知れないこれから」という不在の未来。私たちは確かに今に生きている。しかし「現在進行形の今以外のその時間」に思いをはせる、すなわち時間的に不在なるものの存在に思いをはせることが、このシーンでは重要になっている(p.72.)。

 例えば、カニがこちらに立ち向かってくる姿をみて、そこにもう一匹のカニの亡骸を必死に守るという「ありえないもの」を感じる体験(p.77.)。

 例えば、写真家川内倫子の作品集『Cui Cui』での、亡くなったはずの祖父の存在。

中盤を過ぎた頃、唐突に物語の中心にいた祖父が亡くなる。夫の死に戸惑い、立ち尽くす祖母の姿が印象的だ。葬儀が終わり、祖母はひとりになるが、しばらくして川内家には新しい生命が授けられ、また家の中に(写真に)光が満ち始める。その時、それまでの時間軸を壊してなくなったはずの祖父が登場するのだ。作者はファインダーを覗きながらふと生前の祖父を思い出したのか。赤ん坊の傍に祖父の存在(不在)をかんじたのだろうか。(p.202)

「赤ん坊の傍に祖父の存在(不在)」と是枝監督は言う。祖父は亡くなって不在だ。しかし赤ん坊という存在が生まれることで、目には見えない祖父の存在も見えてくるのだ。

 そもそも私たちの日常の生とはこのような存在と不在が交錯する複雑なものなのではないだろうか。ところが私たちは今を優先して、徹底的に物理的に目に見えるものの世界だけで生きようとする。不在なものは本来あいまいだ。私たちが耳をすましたり、目をこらしたりしないと触知しえないものだ。ところが物語は、ときにあいまいさを排除し、明確な意味を与えてしまうことで、ひとつの暴力として私たちの生を支配する。

・日常のディテール

 日常のディテールでも同じことが言える。冒頭の引用をもう一度繰り返そう。

しかし前のめりに「物語」を読み解いていくそのベクトルが強すぎると、物語の背後に息づいているはずの、彼らの失われるかも知れない「日常」がおろそかになる。

 日常のディテールとは、はっきりとは意味を持たない、物語の明示的な起承転結にはからめとられない、破片のようなささいなものである。だが、物語に回収されないがゆえに、私たちは映像を見ながら、そこに生まれつつある意味に驚くのだ。たとえば是枝監督は自らの好きな映画『自転車泥棒』のラスト、こどもが父親の手を握るシーンについて、こどもの時に見た時の記憶、大学時代の印象、そして三度目に見た時の印象がそれぞれ違っていたことを挙げ、この場面の複雑さについて述べている。

この映画は複雑だ。それは稚拙であるからではもちろんなく、人生や世界の複雑さを正確に反映していることによって生じる複雑さである。

 映像とその意味の関係が必ずしも自明ではなく、幾重にも解釈が重なる。人生や世界もそうだろう。私たちは多様性のなかに生きている。その多様性が担保されることで、さまざまな意味が生まれてくるのだ。そのために丁寧にディテールを追う必要が出てくる。

 手の描写ではっとするのは、『そして父になる』でのディテールとしての手だ。娘を慰める母親の手、親子で寝るときの母と子がお互いに差し伸べる手。そのひとりひとりの手を丁寧に描くことで、私たちは、そのさりげないしぐさのなかに、初めて出会ったかのような、新鮮で豊かな愛の意味を発見する。

 なぜこのような手法が可能なのだろう。そしてなぜこのような世界がぶれなく何作品にもわたって描かれうるのだろうか。こうした作品世界の根本に何があるかといえば、それは「作品は自己表現ではない」という創造意識である。是枝監督は先のインタビューの中で詩人谷川俊太郎の次のことばを引く。

詩は自己表現ではない。詩は、自分の内側にあるものを表現するのではなく、世界の側にある、世界の豊かさや人間の複雑さに出会った驚きを詩として記述するのだ。

 これをうけて、是枝監督は「ドキュメンタリーは、社会変革の前に自己変革があるべき」と続ける。ここに芸術の根本があるように思う。芸術は自己表現ではない。もしそうであるならば、芸術は単なる自己完結の結果になってしまう。たとえ表現者がいるとしても、「そこ(映像)に描かれた感情は、僕の『何か』に対しての感情なの」(p.25)であって、作品は、表現者のメッセージの伝達ではなく、あえて言うならば、世界の私たちに対する呼びかけを届けるのだ。この呼びかけられている私たちとは表現者であり、観客であり、読者でもある。

 この思想には、是枝監督の人間観が強く反映している。人間はリア充といった自己充足しているような、自己完結できる存在ではなく、たえず欠如を抱え込んでいる存在だという深い認識がある。人間は完結せず、たえず欠如を抱えている、すなわちその空白の部分があるからこそ、その空白を埋めようと、自己変革していくのである。そして欠如を根本的にかかえているからこそ、他者と寄り添おうとするのだ。

 是枝監督は、自作『空気人形』と呼応する吉野弘の詩をひく。

生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
生命は
その中に欠如をいだき
それを他者から満たしてもらうのだ

 人間は決して自分一人でその欠如を埋めることができない。だから、「つい他者を求めてしまう弱さ」を持っている。だが、是枝監督は言う、この「欠如は欠点ではない。可能性なのだ」(p.55)と。

 是枝監督の作品を通底するのは「死」ではない。それは喪であって、さらに言うなら、喪失という決定的な欠如をかかえ、弱いままで生きる人間の生の可能性である。