アメリカは70年代初期に「名前のない馬」、「ヴェンチュラ・ハイウェイ」、「金色の髪の少女」などのヒット曲を立て続けに出したグループだ。「名前のない馬」は、少しメランコリックだが、ハーモニーが美しい曲。繊細なフォークロックを下敷きに親しみやすいメロディライン。でも単に耳に心地よいポピュラー・ソングのグループというだけではない。「Holiday」では、ジョージ・マーティンを迎え、ビートルズ的な凝った音づくりをしてトータルアルバムに仕上げており、アーティスト性の高さを見せている。
こだわりがあったとしてもそれをひけらかすのではなく、あくまでもポップに聞かせる。その職人らしさが、このアメリカの魅力ではないだろうか。そして、その姿勢に多くの若いミュージシャンが影響を受けた。
このアルバムは、ジェームス・イハとファウンテンズ・オブ・ウェインのアダム・シュレシンジャーという、若手のミュージシャン二人がプロデューサーをつとめている。さらに演奏にも参加をしている。敬愛するグループと一緒に演奏するのはどれだけ胸のときめくことだったろう。
とはいってもそうした若手陣の参加はあくまでひかえめで、音楽的には70年代のアメリカとそれほど変わらない。1曲目はアコースティックギターの旋律から始まる。その憂いのあるメロディラインはまさにアメリカ。2曲目の「インディアン・サマー」は少しノスタルジックな感じにさせられる曲。ここでも間奏のギターのメロディラインが美しい。3曲目の「ワンチャンス」もアメリカらしい、コーラスに比重が置かれた曲。この曲のバックはジェームス・イハだが、その控えめなコーラスが実によい。使い古された表現だけれども、まさに聞いたら耳から離れなくなる素敵なメロディなのだ。
なかでもAlways Loveは、このアルバムの中ではアップテンポで、ロックっぽいエッジの効いた音とアコースティックの静けさがよいバランスで配置されている、このアルバムのクオリティの高さを象徴する曲だろう。
4曲目はマイ・モーニング・ジャケットのジム・ジェームスの曲。6曲目の「ライド・オン」という曲にはライアン・アダムスとベン・クウェラーも参加している。こうした若者たちに囲まれてアルバム制作がされたわけだが、企画物ではまったくない。どの曲も新鮮で色褪せない魅力をたたえている。
ロックに惹かれる理由は、結局のところロックというジャンルが曖昧で、雑食であることにつきている。クラシックでもジャズでも民族音楽でも、ロックっぽく演奏することができる。その意味でさまざまなジャンルの音楽を浸食してしまうのがロック。でも何でもありだからといってそれでよい音楽ができるわけではない。ロックミュージシャンの優れた人は多かれ少なかれ、優れた探究者でもあった。
今のロックの世界でその探究を最もどん欲に進めているのがデレク・トラックスではないだろうか。そしてそのロックの探究を頭でっかちではなく、あくまでも心地よい喜びの生まれる音楽として実現したのがこのSonglinesである。このアルバムではジャズ、ソウル、宗教音楽、民謡、さまざまな伝統を持つ音楽が、デレクによって解釈され、演奏されている。他人の曲でありながら、そしてライブでもないのに、とても生き生き感じられるのは、まさにかれらがジャム・バンドであり、メンバーのやり取りを通して音楽が今ここで生まれているからだろう。
1曲目はローランド・カークの曲だが、まずタンバリンから入り、パーカッションが重ねられた後、デレクのスライドが切り込んでくる。そしてかなり黒いコーラスがアルバムの開始を告げる。そして、ドラムの一打で次の曲へと移る流れが心地よい。この2曲目はデレクとプロデューサーとの共作。曲の間で、ドラムがリズムを刻みながら、キーボードが全面に出て、ワンクッションあいた後にギターのソロが始まるところなど、バンドの一体感を生き生きと感じる。
3曲目はブルースナンバー。4曲目はイスラム宗教音楽のヌスラット・ファテ・アリカーンの曲のメドレー。10分近く続くインストゥルメンタルの曲なのだが、この曲こそ、アルバムの中でもっとも挑戦的で志の高いデレクの演奏が堪能できる。最初のシタールようなギターの演奏から始まり、1つのフレーズが、変奏されながら、バックのドラム、コンガと呼応する。フルートの音色もまざり、演奏が次第に熱を帯びてくる。そして最後は熱狂的なリズムへと変調し、ゴスペルにも似た密度の高い演奏へと、ハンドクラップとともに一気に上り詰めていく。この曲は実際にはロックには聞こえないかもしれない。しかしイスラムやインドという地域に限定された音楽ではなく、音楽そのものが普遍的にもつ高揚感を実現しているところにロックのスピリットをひしひしと感じるのだ。この解釈はアルバムの一つの到達点と考えてよい。
5曲目は、スライドギターによるディープなブルースナンバー。タジ・マハールが演奏する同曲のファンキーなブルースの熱気をここにも感じるが、こちらはずっとアコースティックな演奏。6曲目は、レゲエを下敷きにした軽快な曲で少しここでリラックスできる。そしてタイトな演奏のオリジナルの7曲目へと続く。8曲目はソウル歌手O.V.ライトの曲だが、ワウワウとエコーを効かせた面白い処理をしている。9曲目はオリジナルの楽曲。10曲目もオリジナルで、モロッコの民族音楽を意識したインストゥルメンタルだが、その音調をギターでしっかりと再現しているところが面白い。11曲目はグリーンスリーヴスの解釈だが、デレクの超絶ギターテクニックが堪能できる。12曲目はソロモン・バークのカバーだが、軽快な乗りで、デレク・トラックスがライブバンドであることを強く印象づける。とりわけマイク・マッチソンのヴォーカルが素晴らしい。そしてアルバムの最後はそのマイク・マッチソンの曲This Sky。やはり中近東風のギターフレーズが繰り返されながら、fly fly awayと歌われるように、だんだん空へと上がっていく開放感のある曲。
デレクがこのアルバムを制作したとき、まだ27歳であった。すでに十分なキャリアを持ちながら、さらに自分のギターの表現の可能性をとことんまで突き詰めた意欲的な作品である。この創造へのどん欲さこそロックだと呼びたい。
シンガーソングライター。自分で作詩、作曲をして、自分で歌う。とてもパーソナルな行為とはいえ、そうしたシンガーソングライターが生まれたのは、70年以降のバンドスタイルとは異なる、内省的な表現形態を求めていた時代の要請があったからだ。どれだけ個人的にふるまおうとも、そうしたふるまい方自体を社会が求めていた。だからこそシンガーソングライターは、自分を歌いながらも社会的な求心力を持ち得た。ニール・ヤングの『アフター・ザ・ゴールドラッシュ』は、たとえばそうした力が、さらに時代を超えて普遍性を持ちうる代表的なロックアルバムだ。
では今現在シンガーソングライターであるとはどんな意味を持つのだろうか。たとえばすでにキャリア十分のRon Sexsmithがいる。あるいはJack Johnsonのようなひとつのムーブメントを作れるミュージシャンもいる。だが彼らの音楽には時代と切り結ぶ緊張感はない。社会自体が音楽にそれほど強い切迫感を要求しないからだろうか。そうするとシンガーソングライターの善し悪しは、まずはその曲の雰囲気、特にパーソナルな表現としての憂いのようなもの、そして声質で決まってしまうところが大きいだろう。そうした資質のよって音楽の価値が決まってしまうのが、今のシンガーソングライターだろうか。もちろん彼らの音楽は胸をうち、人々に愛される。だが、どれほど多くの人に彼らの声は届くだろうか。結局はある趣味を同じくする人々にとっては愛される、しかし、そのコミューンに属さない人には素通りするだけのイージーリスニングに終わってしまうのではないだろうか。Jack Johnsonは優れたミュージシャンだとは思うが、そのムーブメントは単なるムードと言い換えてしまってもよいような希薄さがどうしてもつきまとう。たとえばふだんブラックソウルを聞かなくても、ウィルソン・ピケットを聞いて感動したり、そうしたジャンルを越えて届いてくるような波及力をどれだけ持ちうるのだろうか。
Brett Dennonは、まさにその声質が魅力的なミュ−ジシャンだ。かすれた、線の細い声は、他のだれにもまねしようのない天賦のものだ。一瞬男性なのか女性なのか分からない中性的な声は、一度聞いたら彼だと分かる。そして曲全体をおおう憂いとその声質はみごとにマッチしている。曲調は、ただ自分が歌いたいことを歌ってしまったようで、何らかの影響を感じさせることなく、自由だ。だがそれは同時に、曲自体の必然性、「こう歌わざるをえない」とか、「こういうメロディ、アレンジにせざるをえない」というような必然性が希薄だということにもなっている。それはニール・ヤングとは究極的に反対の世界だ。だから曲の美しさが、単に耳に心地よいことの同義になってしまっている。こちらの気分にあわせてどうとでもなる音楽といおうか。ニール・ヤングには、こちらの気分を変えてしまうほどの強い求心力がある。だから誰にでも聞かせられる音楽ではないだろう。でもBrett Dennonならば、そんな心配はない。
アメリカのインターネットラジオで聞くと、ぐっと印象に残るが、アルバムを通して聞くと、結局さらっと流れていってしまう。声のよさ、曲のよさに聞き惚れるならば一曲だけで十分なのだ。そうしたミュージシャンはアメリカに数多くいる。それがアメリカの豊かさなのだけれど。でも、そこからアルバムで聞かせてくれるミュージシャンはどのくらい生まれてくるのだろうか。こちらを振り向かせ、日常を違った空気で染めてくれるミュージシャンはどのくらいいるだろうか。