金延幸子は、60年代末に関西のフォークムーヴメントから出てきたシンガーソングライターである。72年に細野晴臣プロデュースでアルバム『み空』を出した後、この1枚を残しただけでアメリカへ渡ってしまう。この「レア・トラックス」は98年に出されたもので、ライブ音源の他、同じく関西の中川イサトたちと組んだグループ「愚」のシングルなどもおさめられている。
ライブは70年の中津川「フォーク・ジャンボリー」や、同年の東京・文京公会堂の「ロック反乱祭」のステージがおさめられている。はっぴいえんどのコンサート音源もそうだったが、このCDでも司会者のステージでのコメントも収録されていて、それがかえって金延幸子やはっぴいえんどの音楽と時代のズレをはっきりと感じさせて興味深い。
「ロック反乱祭」では、「監獄ロック」を披露したおちゆうじが、金延幸子のボサノヴァ風にアレンジされた「あかりが消えたら」のあとで、「ロックといえないでしょうね」とあきれた声を出している。彼によれば、プレスリーやエレキがロックを代表するらしい。あるいは「ロック反乱祭」だと念押しをしているところから、「反乱」を予感させるものがロックなのだろう。しかし「あかりが消えたら」は、そもそもアコースティックギターで演奏されている。おそらくバックは中川イサトが弾いているのだろうか、リズムはまさにボサノヴァだがアクセントをきかせた力強い演奏である。全体のアレンジは軽快で明るい。金延の歌も素朴ではあるが、とても伸びやかに歌っている。次に歌われる「ほしのでんせつ」は、フォークといっても、原義の「フォークロア」に近い、民族音楽の旋律を含んだエキゾチックな曲である。
司会者が「ロックの形式」にこだわるのに対して、金延幸子、あるいはグループ「愚」は、まさに形式にこだわらない音楽を展開している。自分たちの可能性を試すかのように、今述べたボサノヴァや民族音楽をかかんに自分たちの音楽に取り入れている。ロックということばがすでに硬直化しているのに対して、彼らの音楽は実に柔軟で、その場で展開される創造性に司会者はまったく追いついていない。
「ほしのでんせつ」は71年のフォーク・ジャンボリーの音源も収められている。こちらはギター演奏にトラッド・フォークの影響がよりはっきり認められる。だが、それは決して「まね」ではなく、卓越した演奏技術によって、自分たちのものとして十分に咀嚼されている。次の演奏「あなたから遠くへ」は、ジョニ・ミッチェルのギターの音色に近い。
そして金延幸子の音楽をたとえフォークとも呼んだとしても、それは「私」とは無縁のフォークだ。「私の生活」や「私と社会」のような時に過剰な自己意識を見せつけるような音楽でもない。また湿った叙情性とも無縁な、どこまでも乾いて軽やかに飛翔するフォークだ。
金延幸子の歌と演奏を聞いていると、今述べてきたアメリカやイギリスの音楽の影響という言い方が不確かなものに思えてくる。むしろそうした音楽をいち早く理解し、方法として取り入れることで、自分たち独自の音楽を実現したといえるのではないか。その意味で、ロックとは既存のさまざまな音楽形態を取り込み、そこから新しい表現を産むための手段であるという認識が、世界で同時に共有され、日本でもそれに呼応した音楽家がいたと言えるのではないか。
スマッシング・パンプキンズのメンバー、ジェームス・イハのソロアルバムである。バンドの歪んだ音とは対照的な、シンガーソングライターの叙情性をたたえた音楽が奏でられている。甘くてせつなくなる、少し憂いをふくんだ音は、きわめて簡素だ。一応バンドサウンドではあるが、装飾的な加工は一切なく、アルバムジャケットそのままに、純粋な光に包まれた音作りとなっている。
1曲目のアコースティックギターから始まるイントロがアルバム全体の雰囲気を集約している。また控えめな弦楽器の伴奏もアコースティックな雰囲気を作り出す。唯一、これはニール・カサールだろう、彼の特徴的なエレクトリックギターのワウワウ音がバックに聞こえる。それがきわめて控えめだが、アルバム全体にドリーミィーな世界感を与えている。
曲のタイトルも至って素直だ。Beauty, Jealousy, Winterなど、シンプルな曲名が並ぶ。そして歌詞も素直な心情を歌っている。Be Strong Nowのサビの部分、And if I come and hold you nowの歌詞のように、もう少しで、彼女に寄り添えるのに、わずかなところでの戸惑い。淡い距離感。あるいはOne and TwoでもIf I hold you tight and never let goと、ここでもifの世界が歌われている。
さらにLover, loverのサビの部分。
If you say that you love me
And if your heart's one and only
If you live with me for just one day
Until tomorrow
現実から少しだけ離れた「もし」の世界。それは少し夢のようであり、ぼんやりと照らされて輪郭を失った世界のようだ。その中で、とても親密に二人の世界がスケッチされる。何となく当時のイハのプライベートまで透けてみえるようだ。
そしてこのアルバムは確かにシンガーソングライターとしての優れたアルバムなのだが、決して単調にならず、意外に深みや広がりを感じるのは、バック・ヴォーカルの多彩さがあるからだろう。よく耳を澄ますと、イハのやや金属的で伸びのあるヴォーカルに寄り添うように、丁寧でシンプルなハーモニーが奏でられている。バンドという形体とはまた違う、友人たちとの交流が、音の力強さを作り出している。
シンプルで簡素。だがイハのヴォーカルは意外に力強い。低音も響く。自分の作りたい音が、それを十分に理解してくれる友人に支えられたとき、アコースティックを主体にしながらも、十分に広がりのある光に満ちた音楽世界が実現したのだろう。
Elliott Smithが好きかどうかは、その相手とロックの話ができるかどうかのもっとも大きな分岐点である。Elliott Smithのロックは、人格の陶冶や、癒し、共感、励ましとは最も遠いところにある。背中を押してくれる音楽とは最も遠いところにある。ふと気づいたらささやいてしまっていたひとつのフレーズ。しょうがなく生み出してしまったメロディのかけら。それが羞恥の感情にも似て、生の最も純粋な部分を表しているのがElliott Smithの音楽だ。
Elliott Smithが「音楽流通」の形態を意識して「アルバム」として仕上がったのがこのXOである。したがって、それ以前のアルバムとは桁違いにアレンジがカラフルだ。ドラマチックですらある。1曲目はこれまでであれば、最初のギターのリフだけで完成とされていた曲だろう。指のかするギターの弦の音、それだけで成立しうるのがElliott Smithの曲だ。しかしXOにおいては、この1曲目はピアノ、ドラムのバックが入って奥行き広く展開してゆく。2曲目は、今までの世界に近い音作りをしている。ギターの弦が、か細い金属の線でできていることを実感させてくれる弾き語りの曲だ。4曲目はビートルズのリフそのままのブリティッシュな雰囲気の濃い曲である。これまでと比べればずいぶんポップな曲だが、Elliottの作曲クオリティの高さを実感させてくれる佳曲。それは7曲目も同様だ。キャッチーなサビの部分が印象的なポップな曲だ。また9曲目では、J.Macsisなみのハードなギターを聞かせてくれる。グランジとはまったく違う方向性をもつElliottだが、この曲あたりは少し似ていなくてもない。
しかし基本はビートルズだろう。10曲目、そして最後のI Didn't Understandなどはまさにビコーズの世界だ。Elliott Smithの音楽は決して死や終末を歌うものではない。むしろ日常の中にたえず訪れるいくつもの小さな死、小さな別離、喪失。そこからのわずかな再生のきざし。それが内省的な音楽の色調を決めているのではないだろうか。
XOとFigure 8は、スタジオワークとしてもかなり充実していて、まさに職人としてのアルバム作りを確信させる作品だった。しかしそれが彼の音楽性と相反してしまったと思わざるを得ないのは、この2枚が彼の人生の最後の仕事となった歴然とした事実からだ。もうこれ以上どんな可能性も残されていない。ぎりぎりのところまでとぎすまされた音楽へのストイックな傾倒。それがこの2枚なのだ。