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Feelies(The), Here Before (2011)

homepage_large.811e6dcd.jpg 85年大学に入ってから聞いていたアメリカの同時代の若者ロックといえば、R.E.Mやスミザリーンズ、そしてこのフィーリーズだった。彼らのデビューが80年だから、5年遅れでその存在を知ったことになる。

 パンクという現象が短期間に終わったとはいえ、その余韻はまだまだくすぶっていた。その余韻が鬱屈してできた音楽が好きだった。もはや声高に叫ぶこともない、派手なファッションで周囲を煙たがらせるのでもない。でも音には鋭さがあって、それでいて内省的な憂いもあった。たとえばdB'sのような音。

 パンクの前にはアンダーグラウンドという現象があった。こちらは退廃と攻撃性が入り交じった夜の火花のような音楽。それを文字通りヴェルヴェット・アンダーグラウンドが体現してたとするならば、その喧噪とスキャンダルから離れて生まれた音楽が、メンバーの一人でもあったジョン・ケールだ。ルー・リードがトランスフォーマーやベルリンによって、退廃を極めていく音楽をつくっていたときに、ジョン・ケールは午後のまどろみのような音楽を作っていた。

 アンダーグラウンドとパンクが過ぎ去った日常で、それでもアヴァンギャルドな精神と音楽でしか表すことのできない衝動をどう継続してゆくか。そんな場所から生まれたのがR.E.Mやフィーリーズだったのではないだろうか。そして日常とはどうしても折り合いをつけることのできない切迫はニルヴァーナのようなグランジ・ロックを生んでいったのではないだろうか。前者が息が長く、後者が短命だった理由も、生きづらさとの折り合いのつけ方にあったように思う。

 フィーリーズのファーストを今聞いてみると、リズムは単調でまだパンクの余韻が残っている。だが、ギターの音は細く、神経質な印象をかきたてる。事実、1曲目はナーヴァスな若者の話。また2曲目や3曲目のギターのメロディはオルタナ感あふれる奇妙な旋律を弾いている。

 そんなフィーリーズも91年に4枚目のアルバムを出して、その後は音楽シーンには出てこなくなってしまったようである。自分自身も88年のOnly Lifeを聞いて以降はほぼその存在を忘れてしまっていた。

 先日、ユニオンの特価品コーナーをゴソゴソやっていたらこのアルバムに出会った。まったく見たこともないジャケットで、編集盤かとも思ったが、200円という値段もあり購入。そして調べてみると2011年に出された20年ぶりの復帰作とわかった。しかもちゃんとセカンド以降のフル・メンバーである。内ジャケには中年になった5人が仲良くベンチに座っている写真があって微笑ましい。

 全13曲、45分。3分から4分前後のシンプルな曲が並んでいる。シンプルだが、メンバーの演奏のハーモニーの見事さに聞き惚れる。リードのカッティングギター、そのリードに並走するサイドギターは曲に奥行きを与える。昔は「手が痙攣しちゃったの?」って感じのつたない感じのカッティングもあったが(それが魅力だったといえば魅力なのだが)、今回は熟練の技という感じだ。
 
 このバンドは「リフが命」なのだが、これがどの曲もキマっている。1曲目はこのアルバムを象徴するような素朴で明るいリフ。曲の途中で演奏が一瞬止まり、カウントをとる小さな声が聴こえ、アコースティックギター、ベース、パーカッションそしてエレキギターと重なってくる。例えばこんなところにバンドのコンビネーションの良さがあり、惚れ惚れする。

 2曲目はドラムから入って、すぐにカッティングギター、きらびやかでは決してないが、浮遊感のあるメロディだ。こうした目に見えない空気を描くのがこのバンドのオリジナルなところだ。そして素朴なバックコーラス。後半1分は、ギターとコーラスがゆっくりとキーを上げていき、それにずっとパーカッションがサポートしている。こんな構成にバンドの愛らしさを感じられる一曲。

 3曲目はトム・ペティやマーク・ノップラーなどのオールド・ロックの叙情をたたえた曲。この曲の聞き所は間奏部分の少しハウリング気味のギターの音。

 4曲目はノイズ多めのギターが心地よい。Yo La Tengoを思い起こすようなギターの音だ。後半に入ってさらにノイズや信号音のような音が入り混じり、ひしゃげるようなドラムの音量を上げながら一気に突き進んでゆく。アルバム全体に歌詞がシンプルなのだが、この曲でもWhen You Knowとシンプルなフレーズをひたすら繰り返している。

 5曲目は4曲目とは対照的な白昼夢という形容がふさわしいポップな雰囲気の曲。

 6曲目は左右から聞こえる2本のギターのシンコペが見事な1曲。Way downというタイトル通り、なかなかアーシーなサイケデリックソングだ。展開がAとBだけで、最後にリードギターが前面に出てくるといういたって単純な曲なのだが、バンドの一体感だけできかせてしまうところが熟練のワザ。

 8曲目は、このアルバムの中では、わりと展開のある曲。懐かしさを醸し出すリフから始まり、You can change your mindとタイトルを歌うところでコード進行が変わる。ここでの高音を担当するギターリフの変化にしっかりと作り込まれた曲の完成度の高さを感じる。曲の途中、ワンテンポおいて、ギター、ドラム、そしてリードギターがメロディを奏でる。基本的にはいつも同じ構造なのだが、それでも飽きないのは曲の構成がやはり緻密だからだ。最後はタイトなドラムのリズムにみなあわせながら, Running along, Coming onと歌ってゆくところが本当にかっこいい。

 12曲目On And Onはまさにヴェルヴェットを彷彿とさせるリフで、そこにCommon, Hey Nowのような短い言葉がつぶやかれる。同じリフで押しながら、パーカッションがアクセントをつけ、このアルバムのなかでは攻撃性が高いサイケデリックな世界を見せてくれる。単純でありながら密度の濃い1曲だ。

 そして最後のSo Farは、再び優しく素朴で少し切ない曲。

 音楽のスタイルは35年前と何も変わらない。ギターのリフ中心で曲が作られていること、単調なリズムワークだが、それがギターサウンドを支えていること。しかしそれでも以前は前のめりがちだった雰囲気が、今では端正なテンポを保っている。衝動がないわけではない。ただ、かつてはその衝動がそのままストレートな音に結びついていた。だが今は、その衝動と向かい合う余裕がある。それを大人ぽいとは言わない。彼らのギターのきらびやかさは永遠の若々しさをたたえている。かつての擦り傷をつくるような刺々しさしさは影を潜め、曲全体にわたしたちを包み込むふくよかさがある。アンダーグラウンドやパンクといった時代の寵児として一世を風靡しながらも消えていった音楽ではなく、まさに日常そのもののを歌にしようとする粘り強い表現意欲にこのバンドが貫かれていることの証明だ。

Harrow_and_Harvest-thumb-150x150-375.jpg 一音一音、丁寧に織り込まれたかのような手作り感のする作品である。実際、アルバム・カバーからして、職人が手仕事で版を作って、凹凸印刷した素晴らしいもの。アルバムタイトルも「馬鍬と収穫」。地道な労働によってこそもたらされる収穫物。それがこのアルバムに収められた10曲だ。

 演奏しているのは2人。男女のヴォーカルと、それぞれのギター、バンジョー、ハーモニカ、そして手拍子、足拍子だけである。そんなわずかな音だけなのに、ふくよかな世界が描かれる。

 1曲目Scarlet Townは、少しブリティッシュフォークロック風味のする憂いを帯びた弾き語りから始まり、Gillianの力強い歌が加わる。そしてその声に寄りそうかのようにDavidの声が加わる。2曲目は、Take me and love me if you want meと相手への問いかけから始まる、心に孤独の暗い影をかかえた女の子の話。3曲目The Way It Goesは最初から2人で歌われる、声の重なりがきわめて美しい曲。

 4曲目でようやく曲調が多少アップテンポになるが、5曲目Tennesseeでは元のテンポに。Now let me go, my honey oh... Back to Tennesseeのサビの部分がいかにももの悲しい。

 そして6曲目Down Along The Dixie Lineはさらにゆっくりとメロディが流れる。3分過ぎたあたりのギターの間奏部分が特に美しい。繊細で壊れやすいマイナーな雰囲気を感じさせながら、徐々に音階を上げながらつまびかれるメロディラインがきわめて印象的だ。深い確信を持って歌われるヴォーカルと、それを支える繊細なギターが自然に調和している完成度の高い曲。

 7曲目Six White Horsesはハーモニカとバンジョーで始まる、シンプルだけれど、アメリカのルーツミュージックの憧憬を感じられる佳曲。同じくバンジョーの素朴な音だけに乗せて歌われるのが8曲目Hard Times。この曲もシンプルで、そして力強い。

Singing hard times
Ain't gonna ruin my mind, brother
Hard times
Ain't gonna ruin my mind
Hard times
Ain't gonna ruin
My mind
No more

 と歌われる部分は、彼ら音楽観自体をよく表す一節だろう。そう、心を荒廃から救ってくれる慈しみに満ちた音楽。

 下敷きにはブルーグラス、フォーク、カントリーなどさまざまなジャンルが散りばめられているのだろう。しかし古めかしさはまったく感じられない。熟達した職人が作ったクラフトがいつまでも愛され、使い続けられるように、ここに収められている曲も職人の手によって作られているからこそ、時代の風潮には決して流されない強さを湛えている。

山下達郎, Ray Of Hope (2011)

ray_of_hope.jpg 山下達郎のSuger Babeのなかに「雨は手のひらにいっぱい」という曲がある。アレンジは大滝詠一らしいフィル・スペクターサウンド。ライナーで山下達郎は「このアルバムのベストテイクだ」と書いている。プロとしてやっていくかどうかの苦悩の時期に、この曲が先輩ミュージシャンにほめられて、それでずいぶんなぐさめられたとの記述もある。内省的でありながらも決して個人的な鬱屈を表に出すような曲ではない。雨を比喩として用いながら、憂いと軽みをそなえたポップミュージックとしての普遍性をもった曲だ。この曲を出発点として現在に至るまで、ほとんどそのスタイルは変わっていない。

 個人的な心象を歌いながらもそれがしっかり他者へと伝わってゆく、しかも時代を経てもそうした「伝わる力」は変わらない。その一曲前に収められている「今日はなんだか」も素敵な曲だ。

今日はなんだか
君の心が少し
開いた気がする

 という歌詞がいい。35年も前のアルバムなのに色あせることがない。そして今この歌を山下達郎が歌うとき、「心が開く」という歌詞が、恋人同士の関係でありながら、それに重なるようにして人と人の心のつながりが歌われているように強く感じる。

 歌詞が当初作られたときとは、異なる意味内容をもつようになる。ひとつ、ひとつの独立した曲が、アルバムにおさめられたとき、それぞれの曲が影響しあって、新たな意味をもつようになる。そんなトータルな作品性をたずさえ、おそらく2011年という時点をこえて普遍性を得て聞かれ続けるであろうアルバムが今回の新作Ray Of Hopeだと思う。

 「ぼくの中の少年」のパーソナルな内省とは違う形の内省がある。それは時代を個人の中に引き受けた上で、「何が歌えるのか」と真剣に問いかける、社会に開かれた内省である。本人も、自分の作った曲が、聞く人々に文字通り「生きる希望」として受け取られたことによって、作品のもつ「生命感」を実感したのではないだろうか。いや「ぼくの中の少年」のパーソナルな部分をふくみこみながら、「生きる希望」が人々へと伝わってゆくと言ったほうがいいだろうか。

「希望という名の光」はスローテンポで、派手な曲ではまったくない。それでも生への、生き続けることへと強い確信がある。

 そして山下達郎本人が好きな曲「僕らの夏の夢」。この曲にも人と人がつながる希望がある。

心と心を重ねて
光のしずくで満たして
手と手を難く結んだら
小さな奇跡が生まれる

 希望といっても、大々的なものではない。しずくのように落ちてはすぐに消えてしまうようなもの。奇跡のようにめったに訪れはしないものかもしれない。しかし心と心を重ねれば、たとえ小さくとも希望が生まれてくるのだろう。

 この曲も決して明るい色調ではないが、一歩一歩踏み出すような確信に満ちている。その印象はアルバム全体に言える。未来は混迷し、薄暗く、どちらに足を踏み出してよいかわからない。そうした時代の状況にもかかわらず、もし「ひとときでも耳をすませば」、「かすかな希望の音」が聞こえてくる。「手と手がつながる/心が伝わる」瞬間を私たちに与えてくれるアルバムがこのRay of Hopeだ。