このアルバムは何と言ってもトッド・ラングレンがプロデュースしたことで大きな話題となった。大きな、というのも当時音楽雑誌でアンディ・パートリッジがこのプロデュースを気に入っていないという、なんだか芸能ネタのような記事があちこちに乗り、やっぱり気難しい職人同士ではうまくいきっこないんだと、音楽ファンのマニア意識を奇妙な喜びで満たしてくれたのである。
とはいえ、ずっと前からもうニュー・ウェーブという呼称ではそぐわなくなってしまったアルバムを出し続けていたXTCにとって、このアルバムはその決定打であるばかりではなく、あらたなポップミュージックの出発点であり、イギリス風のねじれたポップミュージックのひとつのレフェランスとなった。
「ねじれたポップロック」。それはたとえば10CCだけではなく、Deaf School, Stackridgeなど、イギリス独特のひねりの利いた音楽はひとつのメインではないが、しかしイギリスの音と呼べるストリームを作っていた。
それらのバンドとくらべてXTCは格段に違う資質を持っていた。それはやはりパンクの洗礼を受けたことによるだろう。その性急さは、それまでのポップバンドが映し出していた田園の風景ではなく、まさに都市の風景の反映だ。Black Seaのような音の厚みは、確かにパンクとまったく違う。かといって、70年代のロックとも異なるダイナミックさを持っている。ギターの早弾きとか、ドラムの連打のような定番スタイルからは最も遠い。電子音もひっくるめた、さまざまなスタイルの混合(それは音の混合であり、ジャンルの混合でもある)、それがXTCの音だ。
しかしそうした音作りとはまったく違った、優雅ささえただよわせる落ち着きをもったアルバムがこのSkylarkingである。初期のころにあったひきつったベースラインとかピコピコ感は当然ながら消え去っている。従来のXTCの躍動感はB面1曲目ぐらいであり、それ以外の曲はまさに空に浮かぶかのような浮遊感をそなえた楽曲がならぶ。そのどれもが練りに練られた完成度の高い曲だ。
たしかGrassのPVだったと思うが、メンバーが芝生に目を閉じて寝そべりながら、ゆっくりと体を前へ前へと移動させてゆくシーンがあった。そんな夢遊病者のまどろみような歩行、それがこのアルバムのテンポであり、トータル感をもって実現された世界だ。
ところでシングルカットされたThe Meeting PlaceのB面には4曲のデモトラックがおさめられていた。これがどれもよい曲で、とくにFind The FoxはXTCの牧歌的側面がとてもうまく表現された名曲だと思う。
Elvis Costelloのアルバムで初めて聴いたのは1979年のArmed Forcesで14歳のときだった。Costelloは25歳。ロックを聴き始めたころに夢中になったのは、Costello、Talking Heads、そしてIan Dury&The Blockheadsだ。Talking Headsは初めて行ったコンサートだった。前座はプラスチックス。Ian Duryには大学になってコンサートに行った。Elvis Costelloも何度か見に行った。だが、Get Happy以後、I wanna be lovedのヴィデオクリップを見るまで、Costelloからはかなり遠ざかっていた。New Waveを過ぎてからのCostelloと自分の趣味とが合わなくなっていたのだ。そのCostelloを再認識したのがこのKing of Americaだった。Costelloは32歳。
架空の物語として自分のオリジンをもう一度見つめ直すような、過去への回帰がそのころの自分の心持ちに呼応したと言えばよいだろうか。New Waveを聴き続けながらも、大学に入って、それよりも過去の、Kinks、Eno、Kevin Ayersなどを知るにつれて、いままで聴いてきた音楽が流行に過ぎなかったという気が強くした。そんなときに出されたのがこのアルバムだ。ここにはアメリカへの屈折した憧憬がある。だがあくまでも音作りは正面から切り込んだシンプルで素直な音作りだ。臆面もなく過去と対峙する姿勢が、当時のロックを聴く自分の姿勢と重なって、このアルバムは何度も何度も聴いた。その後も、LPのみならずボーナストラックにつられてCDも買い直して、ライブ収録のはいった2枚組CDなども追っかけた。
バックにアメリカのルーツ・ミュージックの演奏を代表する面々をそろえ(おそらくCostelloより年上のメンバーが多いのでは?)、アコースティックな構成で、スタンダードと言える楽曲が並んでいる。カバー曲であるDon't let me be misunderstoodなどあまりにも素直すぎて、微笑ましい程だ。7曲目Little Palacesではアコースティック・ギターとマンドリンの音だけにほぼあわせて、Costelloのせつないシャウトが聴かれる。そしてこのアルバムを一番象徴しているのはB面の1曲目American without tearsかもしれない。アコーデオンの音色が喜びと悲しみをないまぜにした微妙な感情を伝えてくれる。しかしこのB面には他にも名曲が並んでいる。Jack of all paradesやSuit of ligthsなどCostello流のポピュラー音楽の粋を集めた曲だと思う。New Waveの余韻とルーツへの憧れがうまく調和している曲ではないだろうか。
このアルバムを契機として、しばらく新譜を買い続けるのだが、SpikeにしてもBrutal Youthにしても、強く何度も聴きたいとは思えなかなった。こうして再びCostelloと離れていった。今度はいつCostelloに再会するのだろうか。
86年に限定盤としてだされ、02年にリイシューされた吉田美奈子のミニ・アルバムである。吉田美奈子の活動は大きく何期かに分けられると思うが、このミニ・アルバムの色調は、95年のExtreme beautyや96年のKeyに近い。モンスター・イン・タウンを絶頂とする時期は、そのきらめく高音の素晴らしさに引き込まれるのだが、この90年代後半は、そのなめらかさを保ちながらも、低音の落ち着きが、曲にやさしさと静謐をもたらしてくれている感じがする。2曲目Chrismas treeの「街の灯が輝き増すたびに 魅せられる程の物語りがある」という部分など、低音ヴォイスの充実を感じる。4曲目Shadows are the througts(of the radiance)の「拾い集めて 心に停める」という部分もそうだ。この曲などは、「時よ」や「風」を彷彿とさせるけれど、ずっと大人なアレンジだ。
もともと自主制作盤だったせいか、アレンジがずっとシンプルなのだろう。3曲目のゴスペルテイストの曲や、5曲目のヴォーカルの多重録音など、趣向はこらされているのだが、とても手作り感があって、聞いていて落ち着く。
昔クリスマス・イヴに編集テープを作っていて一晩を過ごしてしまった先輩がいたが、クリスマス・イヴに聞くに最高の一枚がこのBellsだと思う。宗教的な情熱や敬虔さが、音楽にソウルを吹き込んだことは否定しない。しかし神を歌わずとも、曲の美しさに感動し、心が洗われることがある。吉田美奈子の音楽にはそうした質素な充実があるのだ。ただ、そこに音楽があるだけでいい。その声があるだけでいい。それはなにものの対象としない純粋な祈りなのだ。