このアルバムを聴くたびに、音楽の素晴らしさだけではなく、Ronnie Laneという人間の生き方そのものを深く考えてしまう。誠実に生きることと、音楽ビジネスの中で生きることとは相反することが明らかになり、多くのミュージシャンがアメリカに旅立ちショービジネスに身を染め、あるいはコンサートを産業として成功させ巨富を得ていく中で、Ronnieはただ、自分の好きな音楽を、生な音をそのまま演奏したかっただけのように思える。好きな音楽を演奏する。ただそれだけ。だから生活そのものが音楽になる。今生活している場所で、音楽を楽しむ。それがRonnieが行ったパッシング・ショウと名づけられたツアーだ。金には全くならなくても、最も音楽が身近に感じられるひとときだ。
プレミアのついたチケットに大枚をはたいて、それで豆粒のような、あるいはスクリーンに映った姿を楽しむような、消費が生み出す喜びではなくて、観客のすぐ目の前で演奏し、楽しむ観客の姿を見ながら、自分も楽しむような、そんな雰囲気だ。
愚直なまでの音楽への姿勢は、社会的な成功に安住する人間に恥ずかしさを感じさせないではいられない。うまく社会で立ち回って疲れて帰ってきたときに、Ronnie Laneを聞くとかろうじて正気を保つことができる。
Ronnieのアルバムはどれをとっても素朴な曲ばかりだ。親しみやすく、またアイリッシュトラッドの楽器、フィドルやハープの音色が美しい。音の肌触りが実にいいのだ。2曲目、23nd streetなど本当に心をうつ。とてもシンプルなメロディが繰り返されるだけなのだが、Ronnieの声にあわせて、他のメンバーが合唱するところが、とても熱く、バンドはこうでなくてはと実感する。どう考えてもFacesにはなかった雰囲気だろう。
そしてこのアルバムを聴き続けて20年近くになるけれど、このアルバムの印象はずっと変わらない。ふとした瞬間にOne for the roadの一節が浮かび上がってきたりする。心に確信をいだいて歌われるこの声にはありったけの真実がつまっている。
アメリカ建国200周年を機に行なわれたライブツアー「ローリング・サンダー・レビュー」。旅芸人のように街から街を巡りながら、その日その日の音楽を奏でていく。同じ演奏は2度とできない。その瞬間、その場所で音楽が生まれていく。そんな音を切り取って収められたのがこのライブ・アルバム「Hard Rain」だ。このタイトル通り、とても激しい音楽である。といってもディストーションでひずんでいるとか、大音量で圧倒されるというわけではない。むしろそれぞれの楽器の音はひかえめでさえある。ギターはつまびかれ、ヴァイオリンの音は、哀愁を感じさせる。それでも激しいのは、ディランの魂の圧倒的な存在感、これにつきる。
ディランの歌声は、本能的な感情の叫びではない。それは、確信をもった魂のうなりだ。単なるその場だけの感情の爆発ではない、表現をしようとする魂の激しい動きが、そのまま声にのりうつる。
ディランの本質は、よく言われるようにアルバムではなく、ライブにあるのだが、それはこのレコードでも実感する。一曲目のギターのチューニングのような音を聞いているうちに、いきなり演奏が始まる。この唐突な始まり方に、鳥肌がたつ。そして例のごとく、原曲をとどめないアレンジに、この曲が Maggies' Farmだとはなかなか気づかない。この曲、ブレイクの仕方が最高にかっこいい。そして二曲目One Too Many Morningsは感傷的なようでいて、バンドの高揚感が激しいエネルギーを感じさせてくれる。そして三曲目The Memphis Blues Againは、サビの部分、ディランの声が虚空に響き、ゆっくり消えていく終わり方が最高です。四曲目はOh, sister.『欲望』収録の曲だが、張り詰めた空気の圧倒感で、こちらのライブバージョンのほうが断然いい、B面一曲目のShelter From The Stormはギターのかけ合いが最高、こんな生き生きしたナンバーを耳にしたら、踊り狂ってしまう・・・と、きりがないのだが、どの曲もその演奏のテンションの高さに驚かされる。『血の轍』と交互に聞きたいアルバム。そうでないと、こちらの緊張感がもたない。しかもどちらもLPで。
76年11月にはThe Bandのラスト・ワルツが行なわれている。このコンサートは、ロックの終焉とよく言われるが、このディランのツアーと重ね合わせれば、確かにロック・コンサートのもたらしてくれるユートピア幻想に決定的な終止符がうたれたのがこの時期であるというもうなづける。ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリンなど、ロックの伝説が死んでいくなか、残されたミュージシャンたちの苦しい模索が今後始まることになる。