日本の哲学者和辻哲郎を批判的に読解した本で、和辻哲郎の倫理学の出発点を「私たちが社会で(共同体で)生きるということは表現と理解が一体化した状態だ」という認識におく。つまり私たちが相手に何か表現するということは、その場の状況やお互いの関係が理解できているから行えるのだという前提がある。だから社会は共通の理解のもとで成り立っている。しかしこのような認識は言葉をお互いが共有するものだという前提があるということも意味しており、さらにいえば、お互いが約束事を履行しながら生きているということにもなる。言葉が通じるということは「人間存在の共同性」があるからだ。それはそうでお互いが約束を守らなければ、つまり「倫理」がなければ、社会は社会として機能しなくなってしまう。、和辻は人間のあり方を四辻を歩く人間とたとえる。たとえば、異なる職業、年齢の人間たちが、相手とぶつかりもせず、四辻を交差する、そうしたイメージで、社会におけるお互いの存在了解を考える。しかしそこには、思わず歩みを止めてしまわざるをえないような、そんな言葉の存在もあるはずだ、というのがこの本の骨子である。それを「言葉の形式」(つまり意味を運ぶための一定の言語形式)、「感情に適合することば」といった表現で呼んでいる。
菅野覚明『詩と国家』(勁草書房)