この本には、震災後すぐに書かれた、飯沢耕太郎による二つの論考、惨事とその惨事を写す写真の関係についての論考「アフターマス」、さらにその中でも重い意味を持つ死者を撮った写真をめぐる論考「死者の写真について」と、写真家、テレビ・ディレクターである菱田雄介の写真と、震災地をまわった本人の記録が収められている。
写真に何ができるか、と問う前に、まず写真が何をしなくてはならないか、その切迫感が飯沢にこの論考を書かせたとともに、これから長く続くであろう震災「後」の私たちの社会、人生において、写真が持つ意味を精一杯考え抜いた記録が、ここに結実している。
「アフターマス」では、まず何が起きたのかを収める、記録媒体としての写真に言及される。次に、震災前の土地の風景を収めた写真から、「かつてーそこにあった」から「失われたもの」への変質を被りながらも、写真が「記憶の代理物」として存在しつづける意味が問われている。
そして震災の余波が一向に収まらない時期に書かれているにも関わらず、飯沢は、時間のこの先、私たちの今後を考えながら(ただ自分には、未来という言葉を使うには、希望はあまりにもまだ脆弱であるように思われる)、個人に寄り添う写真作品、写真家を紹介している。
時間については、例えば『このまちに暮らす10年後の人々へ』のように、長いスパンと写真の存在について考察がなされる。そこに収められた「かつてあったもの」が失われ、記憶にしか残らない場所になってしまったこと、それでもしかし、その写真を見ることが希望や安らぎにつながることが語られる。次に紹介される阪神・淡路大震災の写真でも、時間の経過を丁寧に辿り、長い時間の流れが写真によって丁寧に記録される。ここでも、「復興に向けた長い、先の見えない苦闘の時期」を捉えるものとして写真の取り組みが紹介される。
時を経ることの意味は何か?それは特定の出来事からだんだん写真の意味が遠ざかっていくこと、言い換えれば、その出来事しか意味しない写真に、いつしか、別の意味、より抽象的で普遍的な意味の読み込みが強まっていくということである。たとえばそれは、「原爆の直接的な記憶が薄らぐとともに、「人類の悲劇」というような抽象的な側面が強調されるようになる」と述べられているような経過である。それによって、たとえば、原爆ドームは、広島の人だけのものでも、日本人のものだけではなく、広く人類の遺産として、人々が気にとめ、歴史を学び、それによって今を見る目を養うことへと向かわせるのだろう。
もうひとつは同じく時間の流れが、人物の生に焦点があてられて撮られた作品である。その例として長倉洋海の「私報道」が紹介される。これは歴史の中に埋没してしまいがちな、歴史の色に染められてしまいそうな人間に寄り添うことで、集団から、かけがえのない個をすくい出す試みである。長倉はコソボの家族、子どもに密着し、「日常化した苦難を長期に渡って撮影していく」。その作品が素晴らしいのは、出自や、それまでの境遇などをはぎ取って、一人の人間がむき出しのまま、私たちの目の前に現れることだ。それは抽象化でもある。しかしそのような抽象化を経た上で、私たちは一人の人間と人間として向かい合うことができるのだ。そこに固有名を持った個人が立ち現れると言おうか。そしてこちらも自分がまた一人の人間として彼の前に立っていることを意識する。
こうして私たちは記憶の義務から少し自由になって、しかし、体験者を前にして、責任という感情が内奥に生まれてくることを否定できはしない。前にいる固有名を持った人間と見つめる関係において、責任を否定することはできない。記憶の義務は知るべきという受動性のもとに自己がある。しかし責任は、私が能動性のもとに、問題を引き受けることで自己がその都度生まれてくる。
続いて、宮城県に入り、気仙沼の卒業式などを撮った菱田雄介が紹介される。ディテールを丁寧に収めた写真は、強く不在を喚起する。そこに暮らしていた人の確かな気配を喚起する。
そして最後に、写真がドキュメンタリーだけではなく、表現対象として現場が撮られる可能性もあることを、志賀理江子の作品を通して語られる。「震災の経験を表現に転化する」行為がすでに始まっている。私たちが世界をもう一度新たな目で見つめ直し、この世界の構成をどう刷新していくか。写真の挑戦はまだ始まったばかりだ。
補論「死者の写真について」は、あれほどおびただしい死者を出しながら、メディアには、死者の写真が一切出てこない、私たちの目に触れないようになっている事実に対して踏み込んだ考察をしている。論者は「基本的には東日本大震災の死者の写真を公表すべきである」という立場から、スーザン・ソンタグの、戦争による死者の写真についての考察『他者の苦痛へのまなざし』を援用しながら、事態の複雑さに正面から取り組んでいる。
まず飯沢は、遺体の写真を見ないで、数字や瓦礫を見たところで、そこから死者を想像することは難しいと言う。
ここですぐに区別しなくてはならないのは、表象と不在の問題である。写真は「そこにあった」ことを伝える。写真は現実を写しとるメディアである。その意味での遺体の写真とは、その土地の中で横たわる死者の写真となろう。しかし、論者は難しいというが、芸術の条件のひとつは、不在なものの喚起である。たとえば同書に収められた、菱田雄介によるランドセルの写真は、その持ち主の子どもを喚起する。ひしゃげてしまった車の写真はその車を運転していた人を喚起する。それは言語の換喩のように、わたしたちが普段行なっている、隣接するものを想起する活動と遠いものではない。私たちは目に見えるものだけではなく、目に見えるものを通して、目に見えないものへと想像力を用いて近づこうするが、それは私たちの認識の根本にある作用ではないだろうか。
問題は、むしろ、現実を写し取る写真の機能の方ではないか。この時には、そこに写っているもの、すなわち被写体と見る側との距離の問題が浮上してくる。それはソンタグが論じるところで、自国の兵士の遺体の写真の公開には「思慮深さ」が要請されるが、「遠い異国の土地」の死者たちの写真が普通に使われてしまうのは、それはもはや具体的な死者ではなく、「イメージ化」されてしまった死者に過ぎないからだ。そこに写っているのは、ある固有名を持ったかけがえのない個の遺体ではなく、戦争によって被害を受けた哀れな犠牲者としてイメージ化された死体である。これが写真の機能である。
では、なぜイメージ化された死体の写真は氾濫するのだろうか。ここでもソンタグの論が引かれる。それはソンタグによれば、禁止されたものを見てみたいという欲望、さらには、「低俗で、悪趣味で、商業主義の屍を漁るような行為」だが、私たちのその性的興味にも似た欲望を消すことはできないと言われる。
飯沢は続いて次のような仮定をする。自分が震災の死者だと仮定したら、何を望むだろうか、と。そして自分の写真が隠蔽されず、自分が死んでいることを伝えるために、写真を公開してほしいと望むだろうと語る。おそらくそう思う人も一人ではあるまい。しかし、その前にやはり考えてみなくてはならないことがある。それは生者と死者の関係、そしてその両者の距離の問題である。
仮に死者がそう望んだとしよう。しかし死者は一人で死ぬのではない。残された者との関係において死ぬのだ。そして残された者とは、近親者という近い距離もあれば、第三者という遠い場合もある。この第三者が出てくるのは、ある社会的出来事、社会的惨事において亡くなった場合である。
死者と残された者との関係において、死者の望みもあれば、残された者の想いもある。その想いは、死者の望みと寄り添いながらも、望みは想いのなかに包摂される望みとなるのではないか。それを冷徹に論じたのはサルトルである。サルトルは『存在と無』(第四部第一章II(E) 私の死)において、「死せる人生の特徴は他人がそれの監視人にとなるような人生である(p.281)」、「死ぬとは、もはや他人によってしか存在しないように運命づけられることである(p.289)」、さらには「死は、この主観的なものからあらゆる主観的な意味を剥奪し、反対に他人がそれに与えたいと思う対照的な意味づけに、この主観的なものを引き渡す(p.291)」、「死の存在そのものは、われわれ自身の人生において、他者の利益のために、われわれをそっくりそのまま他者のものたらしめる。死者であるとは、生者たちの餌食となることである(p.288)」とまで述べている。ここまでの極端な死者の受動性を考える必要は確かにないかも知れない。
ソンタグの言葉がここでも引かれる。写真や映像はあくまでも「注意を向け、考え、知り、調査する契機」である。言いかえれば契機に過ぎないのだ。それは意味をまだ十分に付与されていない完結していないイメージである。そのイメージに新たな意味を生み出していくのは、死者との関係において残された者ではないか。
もうひとつ考えなくてはならないのは、死者と残された者との距離、近親者という近い距離と、第三者という遠い距離である。そして第三者が出てくるのは、先ほども述べたようにある社会的出来事、社会的惨事において亡くなる方が出たときである。飯沢は、東日本大震災の死者の写真を公表すべきであるという立場から、その際の規範について、撮影者の名前と所属を明らかにすること、写真がとられた時、場所の詳細な情報を付与すること、写真を作品化せず、ストレートに提示することを挙げている。
しかしここでもまたその前に考えなくてはならないことがある。それはこのように公開されてしまう死者は、歴史化の作用を被ってしまうだろう、ということだ。すなわち、そこに写っているのは、東日本大震災で亡くなった死者として、私たちの社会的、出来事的文脈の中に落とし込まれてしまっている死者ではないか。サルトルのいう「自己の個人的な存在を喪って,他人たちとともに集団的な存在へと構成される。(p.284)」状況がまさに展開されてしまう。この完結なイメージとして凝固する意味をはぎ取ることはなかなか難しいと言わざるをえない。
そもそも、死者は、まだ歴史へと回収されていない。まだ今は、近親者の手のもとにあって(あるいはまだ手のもとにもどってきていない近親者もいらっしゃる)、その死者の望みと生者の想いが寄り添っている最中なのではないか。
やがては死者が社会化されるときがくる。その時私たちは責任ということばの一番重い意味を携えて、死者を意味付けることを迫られるだろう。死者を社会的存在として考えるときがくるだろう。そのとき私たち生き残りの者は、その意味付けるという行為を通して、自分がどんな人間であり、そしてどんな人間になっていくのかを決定する。その決定に責任が伴うのだ。わたしたちは自分の態度を選択し、自分の潜在的なあり方から、自分を現実化していく。いずれはこうして社会において関係を取り結ぶ時期がやってくる。それは死者を忘れないということだ。しかし、今はまだ、死者は、近親者の手元にある。その手元を離れて、やがて社会化され、私たちとの関係を結ぶまでには、まだ時間が流れる必要があるのではないだろうか。