山田詠美

 ひとつの家族がある。しかし全員と血がつながっているのは末娘ひとりだけである。長男と長女は離婚した母親の連れ子であり、次男は、妻を病気でなくした父親の連れ子である。それでも、この六人家族は、東京郊外の瀟洒な家で、幸せな生活を営んでいる。

 だが、その幸せは「抜け目なく形作られて」いる幸せだ。誰もが心をくだき、家族であることが自然であるように振る舞ってきた結果の幸せだ。その幸せは家族が住んでいる家と似ている。

窓枠のペンキは、はげているのではなく、年月ではげたように塗られているのであり、ポーチに敷き詰められたテラコッタは雨風にさらされてくすんだのではなく、わざわざ取り寄せたアンティークなのであった。(p.36).

 目の前にある幸せは、巧妙に練られた演出であり、誰もがその演技に夢中になった。家族はそれぞれ自分たちが「満ち足りていて」、家族として完成していると思いこむ。そしてその完成の証が母親にとっては長男の澄生であった。母親は「澄ちゃんがいるからこそ、このおうちが完成される気がするの」と言ってはばからない。

 この言葉がもたらす疎外感を必死に打ち消そうと、まだ幼い次男創太は、幸せな家族に入り込むための役割を必死に探す。

「じゃ、ママ、ぼくはどういう役目なの?」
う~ん、と言って、母は額を創太のそれにぴたりとつける。
「創ちゃんはねー、わいわい族の役目」(p.39.)

 充足した家族を演じるためには、おのおのが役目を果たさなくてはならない。またそれが、幸せとされる家族の中で、一体感をもって生きてゆける条件である。

 だがこの幸せは、長男の不慮の死(落雷による死)によって、突然崩れ去る。そもそも幸福が仮構であった以上、その脆弱な土台は根こそぎはぎ取られる。そしてなんとか立ち直ろうとした矢先に、今度は母親がアルコール依存症に陥る。

 生の現実は決して充足ではないのだ。私たちの生には悲しみがあり、別れがあり、喪失がある。日々やってくる欠落を、その都度その都度かかえて生きざるをえないのが生であり、その生にそもそも完成はない。だが、母親は息子の不在を受け入れることができない。欠損を無理やりふさごうとする。

母は、兄のいなくなった空間を埋めるどころか、そこに、あらゆる思い出をしまい込み続け、もう入る余地もない状態になっても、ぎゅうぎゅうに押し込んだ。大切な記憶の中に棲む彼から、ジャンクとしか呼べないものに交じった彼まで、一緒くたにして、はしから詰めて行ったのだ。

 しかし、欠損を欠損として受け止めない以上、時間はその流れを取り戻さない。過去の記憶がそのまませき止められ、行き場を失い「壊死」するだけである。

 小説は、何とか「壊死」することなく、その後を生きてゆこうとしている弟と2人の妹、3人の不器用とも思える生き方を描く。兄を亡くした子どもの頃から、恋人ができ、恋愛の問題をかかえる大人の今現在まで、回想をからめながら、心の道程が丁寧に辿られる。

 それぞれが喪の作業と格闘している。長女の真澄は、義理の父親に言われる。

「いったいどうして、きみは、死に対してそんなにも厳格なの?」(p.193.)

 人を失うことの恐さに恋愛に躊躇する娘に義父はそう言う。

 弟創太は、「母親の味を知らない不憫な子」として、「記憶を改竄」することができない(p.95.)。「その後」を生きるために、私たちは過去の意味を新たに付与し、それによって一貫性を保って、生の方向を決める。しかし、その記憶の物語化を創太は達せないでいる。

 一番下の千絵は、澄生の記憶をほとんど持っていない。その意味で死の影は薄い。それでも、彼女は、生き方を決められてしまっている。それは「あたしは、自分が、まるで皆をつなぎ止めるために生まれたような気がしてる」と言うように、気づいたときには、子を亡くした家族らしい生き方を押し付けられてしまっているのだ。 

 私たちは愛する人の死に直面したとき、激しい喪失を体感する。自分の一部がもぎとられて、「がらんどうになった部分を抱かえて行かなく」(p.195.)てはならなくなる。そのとき、人に手当をしてもらわなくては生きていけない人もいる。「自然治癒を待ち続けなきゃならない人だっている」(p.117.)。生を再び歩みだすための「軌道修正」は、人それぞれであり、そのときに人と人の関係があらためて結び直されることになる。

 それは家族の関係もそうであるが、実は社会においての関係も同様である。依存症が持ち直し、気分が上向きなった母親は、末娘千絵と外出する。ところが、自分のさしていた傘がある若い女性にあたり、舌打ちをされる。そのとき母親は言う。

「やっぱり、ママ、他人様の邪魔になっちゃうのね。迷惑をかけないでは何もできないのね」(p.146.)

 私たちはだれでも喪失を抱え込む。だが、欠損のない社会では、そうした心の傷は考慮されないどころか、充ちていることが当たり前である以上、そのまま「迷惑」とされる。しかし、社会とは、老いや、ハンディキャップや、体の不調や、心の悲しみや、さまざまな欠落をかかえた人たちが本来よりそうべきところなのだ。それぞれが欠損を自分なりに埋め合わせて生きて行けるよう、それぞれが他人に負担をかけ、そして負担をかけられながら生きている場所なのだ。充実している社会は、そうした人々の根本的な欠落としての生き方を隠蔽する。

 残された3人の子どもたちは、家族から離れて、恋人と新たな生活を始めても、家に戻ってくる。それぞれが迷惑をかけることを、ときにはいやがりながらも、それでも引き受けて生きてゆく。最後に小説は、家族が澄生の命日を受け入れることができなかったことの代わりとして、澄生の誕生日にお祝いをすることを思いつく。お祝い、それは、もはや死者への引け目でもない。そして何事につけても、死者を引き合いに出して説明をしていた、言い訳でもない。「死んだ人も年をとる」。死者でありながら、私たちとともに年を取る。そのように死者を受け入れてはじめて家族はそれぞれの今を生きるようになる。

 この作品は、第一章が「私」長女真澄、第二章が「おれ」長男創太、第三章が「あたし」次女千絵がそれぞれ一人称で語ってゆく形式になっている。しかし第四章だけが「皆」で三人称で語られている。その謎解きは最後の最後になって明かされる。そのとき読んできた私たちは、死者と共存することがどういうことか、はたと気づくのだ。