言語について研究を深めてゆくと、やがて「言語に憑かれて」しまい、科学の領域を悠にはみ出してしまう。そうした狂気と紙一重の言語学者には強い興味を感じてきた。ウンベルト・エーコやジュネットが扱った人工言語や普遍言語を夢想した人々だけではなく、たとえば、フランス語史を著したFerdinand Brunaud、文法学者のLeBidoisなどの著作は、それぞれ歴史的、文法的な言語現象を網羅し尽くしたいという強い意志に貫かれている。過剰とも、狂おしいとも言えるまでの蒐集癖がある。
ことばを探究し、その言語の体系を明らかにするために、特別な言辞を創造する学者もこれまた多い。Guillaumeの冠詞論、同じく冠詞論を書いた鷲尾猛、Damourette et Pichonのフランス語文法論など、言語を叙述するために、まるであらたな言語を創造するかのようである。その創造のあり方は、ときにきわめて独特であり、現実世界とつながりながらも、それとは別次元で作品世界を創造してしまうような文学的な営為にさえ近い。
言語研究者には、研究ということばが喚起する学問的客観性とはほとんど無関係に考究する(せざるをえなくなる)人々がいかに多いことか。
情熱ということばではおおよそ言いあらわせない、「言語に憑かれた」言語学者のひとりが関口存男である。関口一郎先生のお爺様であり、お二人の共著になっているドイツ語入門は、そのユーモラスな語り口で読者を引き込むが、なによりも関口存男を知ったのは、慶應図書館におさめられた全集をみたときだ。その著作集は一般の印刷物ではなく、まさにガリ版で刷ったような紙を綴じ合わせたものであり、きわめて分厚い本が何十冊と書架を占めているのを目にしたとき、そこには書くことに存在をかけた人物の生き霊のようなものを感じた。そしてそれらの大著を貫くのは、関口文法とも言うべき独自の文法大系である。言語はすでに存在しているのに、その言語に構造を見いだすことは、新たに言語を存在させることにも等しい。
この関口存男についての初めての本格的評伝が本書である。関口のドイツ語学者としての生涯だけではなく、退役した軍人候補生として、演劇人としての、バロック文学や寓話などに深い関心を持っていた文学者としての、そして何よりも「社会教育の実践家」としての関口の存在がここでは語られている。それは、疎開先の嬬恋での彼の活動だけではなく、高田外国語学校、慶應義塾外国語学校などの社会人を対象とした教育機関で教鞭をとり、NHKのラジオ講師をつとめ、『月刊ドイツ語』の編集に自らたずさわり、ドイツ語の普及に貢献した教師としての姿である。関口に学んだ者は、真に博識な人間が与える安心感を受け取り、教えることに全人生、全存在を捧げている姿勢から、学ぶことの尊さを実感したのではないか。それこそが関口の魅力だったのではないか。
この評伝では、池内紀は、ヴィトゲンシュタインを補助線としながら、関口の言語論が、言語と論理と哲学にまたがるものであることを指摘する。ここでは本格的な関口文法についての検討は行われていない。ただ「意味形態」ということばが何度も現れる。また『冠詞論』についてはやや詳しく紹介されている。既成の文法用語に頼らず、膨大な文例からつむぎだされることばとは、たとえば次のようなものである。「"どんな...?"という考え方が基礎にある時は不定冠詞を用い、"どの...?"という見地からは定冠詞を用いる」(p.166.)。こうした対象を真に理解することばを自らが紡ぎだすとき、言語は閃光のごとくその体系を人間にかいまみせるに違いない。