二宮宏之のテキストは、例えばアンシャン・レジーム期の社会を具体的なフィールドとし、検証を重ねた緻密な歴史研究を実践する一方で、自らの思索に裏打ちされた歴史学そのものへの批判的視野をも兼ね備えた、第一級の研究者である。
ここに紹介する「歴史の作法」は、叢書『歴史を問う 4 歴史はいかに書かれるか』の序に代わるテキストであるが、今現在歴史学がかかえる問題を包括的に示すだけでなく、筆者の考えも綿密に盛り込まれた、文章である。多くの史料、文献を読み込み、かつ、日々自ら思考をたゆまぬ筆者ならではの卓見に富んだ文章である。
1.で問題になるのは歴史家の出発点である「問い」である。その「問い」をまず「今」と「自分」から始めている。「自分」については、色川大吉への上野千鶴子のインタビューを取り上げ、主体的な歴史という考えを紹介するととともに、自己の記憶が本当に自分固有のものであるとは簡単に断言はできない、この問題の複雑さをまとめている。「今」については、発生史的、遡行的発想と、「いま」を異文化として再発見する発想の二つにわけて整理されている。前者は過去と現在を反復する運動であり、後者は、現在の視点から過去を理解することを戒める態度である。たとえば今の意味概念で無神論者というレッテルでラブレーを眺めるような姿勢を批判する態度である。
2.で問題にされるのは、過去という痕跡とどう向かい合うかという問題である。普通に考えれば、過去の痕跡とは史料ということになるが、史料を再検討することが歴史の課題となってきた。そのため、考古資料、民族史料、絵図・古地図、絵画史料、文学作品までもが歴史の対象となってきたのである。そしてもう一つの問題は痕跡の欠如である。たとえば、文字の世界に現れてこない、女あるいは子供の世界、男の世界であっても被支配者層や被差別民の歴史などである。さらにはアーレントの「忘却の穴」の問題が挙げられる。
3.では、歴史記述の問題があげられる。ここで挙げられるのは19世紀ヨーロッパで支配的となった実証主義的歴史認識論に対する、「言語論的転回」の潮流である。これは「物語り論的転回」として歴史学の分野では現れてくる。ここではダントー『歴史の分析哲学』、ホワイト『メタヒストリー』、リクール『時間と物語』が紹介される。
この歴史叙述の問題を3つの部類にわけて考えることで、今まで混乱して語られてきた歴史の物語性の問題を明快に整理している。第一の部類は、「歴史を大局的に捉える歴史記述」である。特定の時代の全体像を描いたり、評伝などがこれにあたる。代表例として挙げられるのがギボンの『ローマ帝国衰亡史』、ミシュレの『フランス革命史』である。第二の部類は、研究論文である。ここでは史料に基づいて綿密な検証を行ない自説を提示することがその目的となる。ここに、歴史家の問い、史料の読み(分析)そしてなによりも論文の構成という点で、ナラティブ性を認めることができる。第三の部類は、年表や歴史地図である。そこに載せる出来事、表示、表現も決して価値中立的ではない。ここにもひとつのテクストとして固有のナラティブ性を認めることができる。
4.では、歴史記述の固有のナラティブについて言及する。ここではたとえば、歴史と文学に関して二宮の所見が示される。ここで二宮が依拠するのは歴史家の仕事が具体的にどう進められるかという点である。ここで二宮は歴史家には2つのオペレーションー史料を発見し読解することと、そのように読み解いた諸々の事柄を相互に関連づけ構成していくことーがあり、この2つの側面が重なり合って進んで行くことが歴史家の作業であるとする。確かに歴史家の本文として、読む=読者でなければ出発できないということ、文学者にとっては、この条件は必要条件とは必ずしもならないところに歴史と文学の叙述の差があるように思える。この両者の違いは虚構性と事実性の違いではないのだ。その意味で歴史家の作業、「読む込むことと、読み込んだものの意味連関の構築」に求めていることが二宮の卓見であると言える。文学者はむしろ、言語そのもの、表現の彫琢を相手にしているのではないだろうか。
最後に二宮は、こうした以上の主張は歴史を限りなく歴史家の方に引き寄せたものだと述べている。その上で、こうした論考が相対主義に陥らないのは、歴史家がみずからの責任と矜持をもってみずから構成した歴史を述べているからであり、また歴史家は絶対的神ではありえず、常に他者と論じあう開かれた場所に身をおくからである、と述べている。「相互の討議の場」これがなければ、歴史は真実と混同されてしまうだろう。