200ページにも満たない小書である。しかし筆者は、この本を書き始める前に、いったいどれだけの莫大な時間をかけたであろう。イギリスからピエモンテへ、おびただしい資料にあたりながら、丁寧にヴァルド派の歴史を追った労作である。イギリス名誉革命期のプロテスタントを専門とする著者が、ヴァルド派の人々の書簡に目を留め、やがて「プロテスタント同盟」の信仰篤き人々とともにヴァルド派の谷へ旅行をし、そこでイギリスで学んだシプリアン・アッピアの手による教区簿冊を発見するくだりは、読者の感動をさそう。この本の醍醐味は、我々の記憶から消えて、文書の中に乾燥した形でしか残っていなかった人間の事実を、丹念に文書から読み明かし、当時のヨーロッパをかけめぐった人間の生の歴史を、そして、ヴァルド派を基軸とした当時のヨーロッパの広汎なネットワークを、まざまざと復元してくれる点にある。人間の具体的な生を描き、かつ歴史の大きなうねりも丁寧にたどっていく、優れた歴史書である。
ヴァルド派とは、中世ヨーロッパにおいて、聖書主義を厳格に守り、キリスト教会から異端とされた宗派である。しかしその歴史は、宗教改革から弾圧の時期を乗り越え、現代まで命脈を保っている(工藤進『ガスコーニュ語への旅』によれば、フランス北方のカトリック国家に対する南仏の不満が「異端」という形をとったとされている。ちなみにカタリ派ともそうした不満から生まれた「異端」であるが、教義上の共通点は少ない。またこの本の中で、百年戦争がフランス南西部を占めているイギリス勢力と北のフランスとのフランス国内での争いにほかならないとする、くだりがある。これが南仏軍の敗北であるとする見解に、『ヴァルド〜」と同じく、汎ヨーロッパ的視野にたつ著者の鋭さが認められる。)
ヴァルド派の人々が住む谷は、サヴォイア公国ピエモンテ地方、すなわち、フランスとサヴォイアの国境地帯にまたがっている。この地形がヴァルド派をヨーロッパの歴史の変動の中に絶えず巻き込むことになる。それは領地だけの問題ではなく、プロテスタントの国、オランダ、そしてイギリスと深いつながりを持つことになる。そこには「ローマ教会はすでに腐敗し、ヴァルド派のみが真の教会を伝え、プロテスタントはその後継者である」という(p.37)根強い信念があった。
著者が足跡を追う中心的な人物シプリアン・アッピアは、1680年か82年に「谷」で生まれている。その後捕虜としてジュネーヴに向かう。その後「谷」に戻ったか、そのままローザンヌの神学校に送られたかは定かではない。その後「谷」は、イングランドやオランダの援助を受けながら復興していくことになる。このあたりのつながりを考えるにあたり、やがてはもう啓蒙の時代はすぐそこまで来ているヨーロッパにおいて、たとえ政治的なもくろみはあったにせよ、宗教によってつながるネットワークがあったことは、まさに著者が言うように、プロテスタントの国際主義があったわけであり、宗教的イデオロギーの冷たい戦争がまだ続いていたことがわかる(pp.95-96)。
こうした「プロテスタントの環」の中で、シプリアンは弟ポールと主にイングランドへ送られ、聖職者として勉学に励む。1707年「谷」にもどったシプリアンとポールは、聖職者総会で問題を起こすことになる。それは二人がイングランド国教会の普及に燃えていたことである。しかしやがて二人はヴァルド派の中心人物としてコミュニティに溶け込み、聖職者として活発に動き回る。そしてイングランドのとのつながりも決して絶やさないし、また当時のイングランドではヴァルド派に対する関心は十分に保たれていた。シプリアンは1744年に、ポールは1754年に死去する。そして時代はいよいよ啓蒙の時代へと入り、宗教によるつながりの意識は失われていく。
こうした失われた記憶が復活してくるのは、19世紀にはいり、イギリスで出版されるヴァルド派に関する書物による。たとえ現実には異なっていても書物で描かれるヴァルド派はやはり、真のキリスト者なのである。イギリス福音主義の高まりが、ヴァルド派への関心の再興を促すのである(p.158)。その後イタリアにおける国民意識の高まりが、ヴァルド派の同化を促すが、ヴァルド派の特異さは現在まで受け継がれている。
まさに中世から現在にわたるヨーロッパ史として読める作品である。この見取り図がヴァルド派という「異端」とみなされる宗派の資料の読解から語られることにこの本の深い意義がある。