小説は長らく思想と政治評論を開陳する「伝達手段」(p.13.)と考えられ、文体はもっぱら詩の領域に属すものとされた(p.12.)。また、たとえ文体論と言えるものがあったとしてもそれは「技巧」や「構成」の考察に過ぎず、小説の芸術的散文性のための真の考察はなされていないとバフチンは言う(p.13.)。
バフチンにとっての小説の文体とは、小説家独自の文体ではなく、小説というジャンルの文体である。それは次のように定義される。
小説の文体は、諸文体の結合の中に存在するのであり、小説の言語とは<諸言語>の体系なのである(p.15.)。
バフチンの言語論の特徴は諸言語、すなわちさまざまな言語、さらにはさまざまな声の響き合いにある。ここで具体的に列挙される要素は、1)作者の文学・芸術的叙述、2)口頭での語りの様式、 3)書き言葉による叙述(書簡、日記など)、4)文学とは異なる様式の発話(道徳的・哲学的・科学的議論、民俗学的記述、議事報告など) 5)主人公の個に根ざした言葉、である。
こうしたさまざまな言葉が高次に統一されるとき、この全体をバフチンは「文体論的統一体」と呼ぶ。
この言語の多様性は、「言葉遣いの社会的多様性」としても考えられる。人間社会はひとつの言語(ラング)によって構成される。ある社会の小説はその社会のひとつのラングによって書かれているし、私たちはそのラングを理解することで社会に参与する。
しかしそれでは社会的な躍動は生まれない。生の活動は、共同体の内部に多様性を開かせることにある。
社会的諸言語、集団の言葉遣い、職業的な隠語、ジャンルの言語、世代や年齢に固有の諸言語、諸潮流の言語、権威者の言語、サークルの言語や短命な流行語、社会・政治的に一定の日やさらには一定の時刻にさえ用いられる諸言語(p.16.)。
これらの言語、声が結合し、関係し、矛盾を生みながら「対話化」される場所が小説であり、小説の文体の基本的特徴だとバフチンは言う。「言語的に多様で、多声的・多文体的な、またしばしば多言語的な諸要素からなる構成」(p.19.)が小説の構成なのである。これまでの文体論は、小説家の言語か、小説内のある一個人の言語活動だけが取り出されてきた、すなわちいずれも個の言語を取り上げるに過ぎなかったのだ。
バフチンにとってはこの多と個が、小説と詩をわける基準となる。大方の詩の成立には「詩人が直接自己を表現している」ことが前提条件となる(p.19.)。また小説は叙事詩とも異なる。叙事詩は従来の意味での「文体」の単一性にその特徴がある(叙事詩独自の語り方がある。小説はむしろ単一の語りではなく、他ジャンルの輻輳的語りである)。おおよそ小説以外は「単一言語・単文体ジャンル、狭義の詩的ジャンルに定位されて」(p.21.)しまっているのだ。
このバフチンの考えによれば「芸術」の考え方も大きく方向転換しなくてはならない。バフチンはまずこれまでの小説と芸術の関係について二つの見解を紹介する(p.23.)。
ひとりはシペートであり、彼によれば、小説は修辞学的構成物=道徳的宣伝のための形態であって、芸術的ではない。もうひとりはヴィノグラードフ。彼は、小説を修辞的要素と詩的な要素の混合形態であるとする。バフチンは確かに修辞的形式の導入は、小説の言語を考える上で有益であるとするが、それはあくまで詩的形式だけを唯一の芸術様式とする考え方を相対化するだけに過ぎないとする。
批判はさらに言語哲学、言語学に向けられる。これらの学問が今まで対象としてきたのは、バフチンによれば「単一の言語体系とこの言語を話す個人のみ」(p.26.)であり、その基底にあったのは「言語・イデオロギー的世界を統一し中心化する力である」(p.27.)。これまでのヨーロッパ(ここでは当然バフチンのロシアを特に指しているのだろう)では、この単一言語が人々に「課せられる」ことで、画定が行われ、相互理解が保証され、現実の統一を可能にしてきたのである。そしてその土地には公認の規範である標準語が創造されたのである。
この単一言語思想は、言語に留まるものではない。これがひとつのイデオロギーである以上、社会・政治・文化と不可分である。この単一言語の求心力は、実際にヨーロッパにおいて「ある支配的言語(方言)の他の諸方言に対する勝利」、「他の諸言語の排斥・奴隷化」、「文化と真理の唯一の言語への未開人や社会的下層の吸収」(p.28.)など、唯一の規範の元への強力な統一の力として働いてきたのである。
だがバフチンは言語の持つ力は求心力だけではないと言う。現実の言語の実践において、言語は社会集団や世代、ジャンルなどさまざまに分化している。言語は、この分裂し、拡大していこうとする遠心力を持っている。詩的ジャンルが求心力に沿って発展するのに対し、小説とそれを指向する芸術的散文は遠心力の方向に沿って形成されてきた(p.30.)、とバフチンは小説と詩を対比する。
そして下層のジャンルこそ、言語的多様性を担保し、常に公認された標準語に意識的に対立し、「パロディ的かつ論争的な」な位置に置かれ、対話に挑んできたとして、重要視するのだ。対話とは従って、遠心力が確保する言語的多様性において実践される行為と考えられるだろう。
言語の存在、言語の生は、この求心力と遠心力の絶えざる交錯、矛盾と緊張にある。バフチンに従えば、これまでの言語学、文学研究はみな「作者の自足的な、閉じられたモノローグ」であった。