歌はどのように生まれるのか。ことばはまず声であり、声は何よりもひとつの音である。だから単にハミングしたり、あるいは叫んだりしても、それは当然音楽とみなされる。ときには声そのものが楽器のように聞こえてくることもあるだろう。
しかし歌には多く歌詞がある。声は音でありながらも、それはことばとして同時に意味を伝える。朗読と歌は違うと直感的にわかるように、歌にはそれを歌だと私たちに思わさせる規則が、言い換えれば制限がある。それが抑揚やリズムだ。したがって、そのような歌に課せられる制約が、同じことばであっても、歌詞に独自の特徴を与える。フランスのミュージシャンの場合、この歌詞のオリジナリティによって評価されることが多い。それは定型詩にも見られる韻や、言い回しに乗せたことば遊びの妙でもある。
そしてまた歌は、ロマン主義の時代に言われた民族の覚醒という概念から見れば、古来からの魂の継続性の表象とみなされる。たとえばブルターニュにおいてケルト文化の復興および伝承に携わる人々にとって、民族楽器を用いて、ブルトン(ブレーズ)語で歌を歌うことは、彼らの精神的支柱となる活動であると言っても差し支えないのではないか。
だが文化は決して単層ではありえない。文化はたえず浸食しあい、多層的な表象を作り上げる。かつてアラビア詩を触媒としてトゥルバドゥールが生まれたように、現在でもフランスでは、とくにラップやエレクトロなどの音楽が、国籍を無化する形で生まれ続けている。
Maggaというミュージシャンについて調べてみてもほとんど詳しいことはわからない。10年ほどグループで活動した後、ソロに転向したらしい。その顔立ちから北アフリカ系のフランス人であろう。以前FNACでファーストを試聴して購入。その音楽は英米ロックの影響を受けたアコースティックフォークで、その外見が伺わせる民族的な背景はほとんど皆無だった。
しかし今回やはりFNACで見つけたセカンド(だと思う)には、イスラム的な意匠がかなり色濃く施されている。ジャケットしかり。タイトル曲Caravane du désertではサハラ砂漠の遊牧民トゥアレグ族が使うとされる楽器を奏でる女性が歌われる。また1曲目、2曲目はアラビア音楽の旋律がそのまま使われている。そして歌詞の主人公の男は「王妃たちの心を盗む男」として描かれる。
なぜここまで彼の作る音楽に民族性が反映しているのかはわからない。ファーストと同じアコースティックギターを基調としながらも、歌詞はずっと寓話性が高く、その哀愁はアラビア音楽に似た哀愁だ。エキゾティックな情景、女を前にして、夢幻の世界に浸る男、野生の熱、動物の息。音楽も歌詞も素直なまでに、アラビア音楽の表象をそのままなぞるようなアルバムになっている。
ようやく見つけたビデオの本人は、背が高く、細長い顔立ちで、アルバムの印象よりずっと内省的な青年であった。これほどまでに民族性を意図づけながらも、実は彼のピッキングによるギターの音はBen Wattを思いださせる。特にラストの、少しエコーがかかったギターの音色、憂いのあるヴォーカルは、Ben Wattの『ノース・マリン・ドライブ』だ。海辺の波にも似て、ギターの音色がせつなく近づいては、遠ざかってゆく。
音楽には定型がつきまとう。それらの定型の混ぜ合わせの妙がひとつのオリジナリティとなる。しかしこのアルバムではまださまざまな要素が分離している印象を受ける。それでもやはりBen Wattに似て、彼の声、ギターにはきわめてまれな透明感をたたえている。繊細で素直なこの音世界こそ、彼のオリジナリティなのだろう。