Natalie Skowronek, Max, en apparence (2013)

ナタリー・スコヴロネクは、1973年生まれのベルギーの作家である。スコヴロネクには自伝三部作と言われる作品があり、Max, en apparence(2013)は、Karen et moi(2011)に続く二作目にあたる。その後2017年に完結編Un monde sur mesureが発表される。この作品は『私にぴったりの世界』の邦題で2022年に出版されている。

  Maxは、著者の母方の祖父の名前である。ユダヤ人であったMaxは第二次世界大戦中のナチスに連行され、労働収容所に入れられ、炭鉱での過酷な作業をさせられるが、生き残って戻ってくる。しかし先に連行された妻を失い、また自分と同じ時期に連行された両親と3人の兄弟を失っている。作品は、ナチスの強制・労働収容所の体験者である第一世代の祖父を第三世代である著者が一人称で語る形式になっている。第三世代による第一世代の語りという主題は、2006年のDaniel MendelsohnのThe Lostによって大きく注目された。フランスでは2012年、移民としてフランスにやってきたが、やがて連行され、命を落とした祖父母を「調査」したイヴァン・ジャヴロンカ『私にはいなかった祖父母の歴史』が出版される。

 いずれの作品においても第三世代である著者が、第一世代の身に起きたことを明らかにしていくとともに、自らが調査していくプロセス自体が書き込まれる。ただ、Mendelsohnやジャヴロンカの場合、その当事者は戦時中に亡くなっており、事実を明らかにしていくことに困難を極める。それでも歴史の中に還元されてしまうのではなく、彼らの一個人としての存在の確証を求めていくことが書く行為を支えている。その一方で、スコヴロネクの場合は、祖父は生還者であり、著者自身も小さい頃から近くで接していた身近な存在であった。

 しかしその姿は「見かけ上」(en apparence)に過ぎなかった。祖父は自らの戦争体験を語ることはなかった。戦後すぐに商売を始め、しかも冷戦下の東ドイツに物資を流して、かなりの富を築いた。闇商売に従事していたことが示唆される。しかしそれが具体的にどんな商売だったのか、はっきりしたことはわからない。また頻繁に家を空けているうちに、妻と娘を置き去りにして、滞在するベルリンで別の女性と暮らすなど、家族から遠い存在となっていた。いったい祖父は戦時中の自らの体験をどう思っていたのか、その具体的な生業は何で、なぜそのような仕事に従事したのか。そのような疑問が解かれることはなかった。

 戦後、自らの体験、さらにユダヤ性を表に出すことはなかった祖父だが、腕に彫られた囚人番号だけが、唯一消すことのできない過去の痕跡として残っていた。何より著者が、小さかったときの記憶として思い出すのもこの入れ墨である。

 著者は、この入れ墨を出発点に、「見かけ」ではない祖父の本当の姿を明かしていこうとする。実際に著者は祖父母から直接話を聞こうとはしなかった。今ではそのことを後悔している。それでも二人と一緒に時間を過ごしていたということは、「二人の歴史は自分の中にまで入り込んでおり、祖父母の残したもの、体験したことは自分の中に痕跡をとどめている」(p. 87.)と自覚する。

 ただ「彼らの心の中に入っていく」(p. 137.)ことはできず、全てを書き尽くすことなどできようもない。それはMendelsohnがガス室の手前で叙述をやめたこと、ワシーリー・グロスマンが「書き得ないことを書くために詩に身を投じた」ことと同様であると著者はいう。かつて登場人物の視点で描写するといった文学的手法で書き始めたものが途中で挫折したことを踏まえて、今回は、大叔母や母たちから話を聞き、当時の資料にあたり、当該機関に問い合わせて情報を得るなどして、事実を集積していく。その過程で、祖父がいたのはアウシュヴィッツではなく、強制労働をさせられていた鉱山の近くの小さな収容所であったことがわかる。それは過去を語るときに歴史的な規模での理解にとどまり、個別の小さな事象を見落としがちであることを気づかせる。その一方で、祖母のいとこから聞いた話と母から聞いた話が食い違うことも起きる。しかしどちらが正しい事実なのか明らかにすることは、今からでは不可能である。人々はそれぞれの過去の物語を生きているのだ。こうした過去を語ることの可能性と困難さをそのまま作品のプロセスに織り込んで、著者は書いていく。

 だが家族の過去を掘り起こしていくことは、今を生きる人々を傷つけることにもなる。特に母は、戦争の体験を忘れられず、夫から離婚された自らの母の心の傷を思い出さざるをえず、さらに、その影響から、母の暗さを受け継がざるをえなかった自らの過去自身を思い出さざるをえない。そしてその母のもとで育った自分にも、祖母・母の暗さが影を落としていることは否定しがたい。ならば、職を退くにあたって自らの囚人番号の入れ墨を消し、アウシュヴィッツによって語られる自己を否定したルート・クリューガーのように、過去を断ち切り、さらには忘却するほうがよいのではないか、そもそも祖父がそのように生きてきたのではなかったか。と問わざるをえない(pp. 148-149.)。

 それでも書くとするならば、この物語が祖父、母、そして私にもたらしうる意味を問わなくてはならない(p.155.)。著者は、やがて囚人番号が70807であることを思い出し、それを消えない過去の痕跡の象徴とする。ときに、Maxが富や豊かな生活を追い求めのは、瀕死状態であった過去の痕跡を消すためではなかったか。しかしときにその入れ墨が見えるにまかせたのは、戦後ドイツの人々に沈黙を課すためではなかったか。戦後の闇商売は、戦争中の鉱山労働の中で生き抜くために身につけた「教訓」の実践ではなかったか(p. 218)。このように祖父にとっての過去の体験の複雑さを推し量ろうとする。

 こうした問いに答えが出されることはない。だがこの周辺をまわるだけの書くことの実践は、著者にとって、「死者と生者を切り分ける」喪の作業となった。作品にはっきりとした構造があるわけではない。物語にはっきりとした結末があるわけではない。しかしそれでも書くことの意味は明らかになる。第一世代を書く第三世代の作品は、孫としての私の揺れ動くアイデンティティをめぐる問いの実践であるのだ。

Roland Barthes, Écrivains et Écrivants(1960年)

 この論考「作家と著述家」でロラン・バルトは、言語活動には2つのカテゴリーがあると述べている。一つ目のカテゴリーは作家(écrivain)。作家の仕事は「いかに書くか」を問うことであり、そのために作家はことば(パロール)を加工し、ことばを彫琢する。それが作家の役割であり、そのことばは文学言語となり、やがて文学言語は社会の中で規範化され(たとえば国語の授業で文学が使われる)て保護されてきた。

それでも作家は世界と関わらないわけではない。ただその関わり方には距離があり、またその距離によって世界に対して「問い」を発することができる。バルトは作家は「世界を揺さぶる力」を持ちうるとするが、その条件は「参加しそこない」である。参加するとは世界と直接関わりをもつこと、参加しないとは、世の中とは無縁に自室に閉じこもって美的な作品を描いているような「大作家」の態度である。そのどちらでもなく、すなわち世界と距離をとりながら、世界を再現することが、作家のもつ可能性である。

 もうひとつのカテゴリーは「著述家」(écrivant)。日本語では「著述家」という訳語があてられているが、もともとはécrivant、書くという動詞の現在分詞であり、それを名詞としてバルトは使っている(英語でいえばwriter and writingで後者を「書く人」という意味で使っている)。こちらはいわばことば(パロール)を手段としてある目的を達成しようとして活動している人間である、その目的とは「証言、説明、教えること」(邦訳p. 201.)であり、それは「マルクス主義語、キリスト教語、実存主義語」と言い換えられているように、「政治/宗教/哲学」の言語である。

 近代にはいると芸術は資本の対象となり、それが買われたり、消費されることで、流通するものとなる。対して著作家は自己の思想を述べることが第一義なので、それが受け入れられるならば、「ただ」でもかまわないだろう。

 このようにバルトは、言語活動を文学と政治/宗教/哲学を対置させる。そして最後に作家と著述家の混合型として知識人という3つ目のカテゴリーを提示する。彼らは文学が要請してきた文学言語の規範から自由でり、そして著作家たちのように社会に思想を伝えようとする。しかし彼らの思想は、社会によって、うまく飼い慣らされてしまっている。つまり「政治/宗教/哲学」がラディカルに言語活動として実践されれば、それは社会革命へと繋がっていくはずだが、知識人の思想は、社会のなかに包摂されてしまっている。しかもマージナルなところに棲息させられている。これはおそらくサルトルのような知識人への批判なのだろうが、最後に示されているように、社会に制度化された場所(=大学)で、社会批判をしているような大学教授がバルトのもっとも辛辣な批判対象となっている。

41b6JqfXSmL._AC_SY355_.jpg レスリー・ダンカンは1943年イングランド生まれのシンガー・ソング・ライター。The Everything changesは彼女の3枚目のアルバムにあたる。エルトン・ジョンがまだ内省的な曲作りをしていた時代の最後に発表された1970年の3枚目Tumbleweed Connectionに、彼女の作品であるLove Songが収められている。本人が、バックコーラスだけではなく、アコースティックギターも弾いている。この後のきらびやかな作品群に比べれば、かなり地味とはいえ、ピアノの音色やストリングスによるエルトン・ジョン的世界を十分に体現しているこのアルバムにあって、ギターだけの質素なLove Songは異質な印象を受ける。それでもこの曲にはエルトン・ジョンがもともと持っていた憂いを帯びた静謐な世界が描かれている。

 寒天の空のもと晴れはしないけれど、それでもかすかな柔らかな日差しが差し込んでくる。ブリティッシュ・フォークはそうした薄い光をイメージさせるが、レスリー・ダンカンの声も曲調も、当時のフォークの質感にとてもよく合致している。とはいえメアリ・ホプキンスほどフォークロアを感じさせることはない。おそらく自分で曲を作れたことから、そのソングライティングのセンスのままで、あまり伝統を意識する必要はなかったのかもしれない。

 「英国女性シンガーソングライター」という肩書きは1枚目と2枚目によりふさわしい。このThe Everything changesが出されたのは1974年で、フォークソングの時代が終わろうとしていた。そのためかバックの演奏も結構厚みが増しているし、ストリングスにも工夫が施されている。だからといってレスリー・ダンカンの歌には余分な力は入っていない。若干低めの、落ち着いた声で歌い、決して声を張り上げることはない。

A面の1曲目こそ多少勢いの強い曲調になっているが、全体としてはアップテンポな曲はなく、まろやかなヴォーカルアルバムとして
仕上がっている。特にB面はもはやフォークというよりも、むしろカーペンターズのようなポップスに近い。レスリー・ダンカンもカレン・カーペンターも、ポピュラーな曲調であっても、声に力強さを失わないところが魅力だ。だから単に耳障りがよいのではなく、私たちの心にまでしっかり伝わってくる。
 
その後の4枚目以降はもはや「メロウ・ソウル」といったほうが、アルバムの表情が伝わると思うが、このアルバムではまだそこまで
音の輪郭がシャープにはなっておらず、ひかえめな雰囲気が保たれている。冬の薄曇りの昼下がりに聞くにはぴったりの音楽だ。