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a1493544012_10.jpg 楽器が上手いとか、美声であるとか、何か圧倒的な力量で音楽を聴かせるのではない。小石をひとつひとつ丁寧に拾い集めて積み上げながら、やがて音の形を作り上げたようなミニマムな音楽である。アコースティックギター、ピアノ、そしてシンプルなドラムにかすかなホーンの音。それらのかすかな音の響きは、聞いている者を夢想へと誘う。

 Drink My Riverはクラシカルなピアノから始まり、ホーンがそこに重なる。そしてDo you dream of me when I'm far away ?と夢が素直に語られる。

 I'm not falling asleepはタイトル通り、完全に眠りに落ちてしまうのではなく、かといってはっきりとした意識を持っているのでもない、そのあわいを歌う。3拍子のピアノの旋律、そしてエリック・サティを想起させるような管楽器がアクセントとして加えられる。そのアンサンブルが永遠に続く夢うつつな雰囲気を曲全体に漂よわせる。

 Covered in Dustでは「君を夢見ながら死んでゆく」と口ずさむ。緩慢な死を予感させながら、ゆっくりとしたリズムが意識の下降を描く。ゆるやかな流れの川で船をこぐ櫂のような一定のテンポで奏でられるアコースティックギターの音、合間に入る控えめなストリングス、いつまでも続くような短調なドラムで構成される。

 エリオット・スミスに例えられるが、確かに高音を歌うときの繊細でかすかに声がかすれるところなどは似ているかもしれない。

 また曲の手法でも細部に類似点が認められる。たとえばYou're out wastingのヴォーカルの二重録音、メロディライン、アコースティックギターだけのバックにしたヴォーカルパートなどだ。

 Lick Your Woundsのイントロは、カセットの録音ボタンを押す音がする。そして奏でられるギターの弦が擦れる音が入る。こうした曲とは直接関係はないが、しかしエリオット・スミスの音の生々しさを感じる上では必須の要素が、このアルバムにも録音されている。

 だがエリオット・スミスの曲にはたえず「未完成感」がつきまとう。ふと頭をついて浮かんでメロディを口ずさんでみる。そのかけらをかけらのままカセットテープに録音したような曲だ。聞いているとそのかけらがこぼれ落ちていき、やがて消滅していくような気分にかられる。

 一方、Andy Shaufの曲は極めて端正だ。構成もきちんとしており、相手に伝えようというアーティストとしての意識は明瞭だ。エリオット・スミスの曲は、その生まれる現場に他人の不在を強く感じる。徹底的に孤独だ。

 メロディラインが似ているJerry Was A Clerk。ピアノやドラムの入り方は十分エリオット・スミスを意識している。高いメロディを歌うヴォーカルラインも。しかし、もしエリオット・スミスだったら、2分過ぎの«Boys, our time has come»で終えてしまうだろう。だがこの曲は«to live among the privileged ones»と続けられ、その後物語はきちんと完結し、聴く者に届いてくる。こうした端正なストーリー形式はエリオット・スミスにはあまり見られない。エリオット・スミスのyouはどこにもいない。

 エリオット・スミスの場合、どうしても死への意識に最終的に辿りついてしまうのだが、Andy Shaufの場合は意識の喪失だろうか。その意味でこのアルバムのテーマを一語で表すなら、歌詞によく出てくるfallingだろう。落ちてゆく感覚。その結果が幸福なのか不幸なのか、意識が混濁してもはやはっきりとはわからない。アルバムタイトルThe Bearer of Bad Newsは「悪いニュースを持ってくる人」という意味だが、それがバッドニュースなのか、グッドニュースなのか、もうどうでもよいほど眠くてたまらない。それがまだ現実なのか、もう夢の領域に入っているのか。そんな意識が消失する直前をかろうじてすくいあげて音が奏でられる。

 この死と意識の薄明には大きな隔たりがある。どれだけパーソナルな音作りをしようと、Andy Shaufは死の一歩手前で必ず踏みとどまるだろう。The Man On Stageのサビの明るい瞬間はエリオット・スミスには書けなかっただろう。

DRM_cover_email-1024x1024.jpg ジャケットの中心には、Dave Rawlingsと、その音楽パートナーGillian Welchが写っている。ソロ名義になってはいるが、全曲とも二人の共作である。またGillian Welch名義のソロアルバムでも、ジャケットには二人のイラストが描かれ、Daveが全曲に参加している。どちらがメインヴォーカルをとっているかの違いだけで、デュオの作品と言える。実際アルバムのクレジットはback vocalではなく、単にvocalと記されている。

 音の作りも変わらない。主に2人のヴォーカルと、ギター、ベース、マンドリン、フィドル、マンドリンそしてドラムという最小限の構成である。ただ今回のアルバムでは3曲にストリングスが入っている。

 使われている楽器からすれば、カントリー、ブルーグラスと分類したくなるが、少なくとも単純に陽気な曲はない。またノスタルジックなところはあるものの、懐古的な雰囲気はみじんもなくはなく、たとえゆったりしたテンポでも、張りつめた緊張感が、アコースティックギターの弦の金属の響きから伝わってくる。

 彼らの魅力は、ゆっくりしたテンポのなかで、音がひとつひとつきわだちながら、やがてひとつの旋律をなめらかに奏でていくところにある。

 たとえば1曲目The Weekendの2分30秒過ぎのギターによる間奏。早弾きすることは決してないのだが、弦が跳ねながらもメロディアスな旋律を奏でてゆく。やや哀切を帯びたそのメロディは、だからといって湿っぽくはならず、一音一音をはっきりと聞かせる。

 2曲目Short Haired Woman Bluesも、アコースティック・ギターの前奏から始まる。この曲は、彼らの曲調には珍しく、かなりストリングスが導入されている。

 3曲目は11分近くもあるThe Trip。ここでの歌は朗読詩に近く、寄る辺ない旅が語られる。モノクロの映画の画面で、人々が南へ向う列車に乗り込む姿、男の擦り切れたブーツ、そして年老いた黒人男性の表情、それらがすべて風景の中に溶け込み、つづられてゆく。

 4曲目はドラムもベースもなく、ギターの弾き語りで歌われる。エコーのかけ方、そしてミシシッピーへの言及が、ボブ・ディランのMississippiを少し想起させる。ただタイトルがBodysnatchers(墓堀泥棒)というように、こちらの曲はずっとディープではあるが...

 5曲目と6曲目は、このアルバムのなかではスタンダードなカントリーナンバーで、ほっとできる。そしてラストのPilgrimはボブ・ディランのOne of Us Must Know(sooner or later)を彷彿とさせる、少しワイルドな歌い方。そして、ラスト近くKeep rollin'のフレーズはザ・バンドとヴァン・モリソンのかけあいをも思わせる。

 7曲とアルバムにしてはちょっと物足りない曲数だが、どの曲もGillian Welchのアルバムと同様、実に丁寧に作られている。ギターの一音一音に気を配り、絶妙な間を取り、ヴォーカルのハーモニーもどちらかが主張することはなく、まさに「調和」している。職人というにふさわしいできばえのアルバムだ。

Pops_Staples.jpg ステイプル・シンガーズの娘たちの父親ポップス・ステイプルズの最後の録音が死後にアルバムとして発表された。ステイプル・シンガーズはゴスペルを下敷きとしながらも、ブルースの音色やポップスにきらびやかさをまとって、彼ら固有のアメリカの音楽を創造した。さらには公民権運動に呼応して、プロテスト・ソングを作曲する。彼らの音楽が時代が流れても聞かれ続けているのは、オリジナリティがあってもひとりよがりではなく親しみやすさがあること、プロテストと言っても体制への反抗とともに、彼らが訴えたのは自らに尊厳を持つことという普遍性があったこと、その2点が大きいと思う。

 歌を歌う娘たちこそがこのグループの華であるが、実は音楽的創造性という意味でこの娘を支え続けたのが父親ポップスであったことを、このアルバムを聞いてあらためて思った。ポップスは1914年生まれ。ということは黒人として音楽に携わるということは、黒人霊歌などあくまで伝統の世界で生きることを意味したはずだ。だがエレクトリック・ギターをかかえた姿からは、一人の音楽家としての人生が浮かび上がる。

 このアルバムの歌とギターは、1998年、死の2年前に録音されたものである。ポップスが84歳の録音である。おそらく死が遠くないことを意識して録音をしたのだろうが、まるで音楽自体が一人の音楽人生を歩んできた老人を通して生まれてきたかのようである。力むところはいささかもなく、十分に艶のある声である。

 本人に発表の意志があったのかどうか、またどのように吹き込まれた曲を完成させようとしていたのかはわからない。ただ彼は娘メイヴィスに«Don't Lose This»と言って歌とギターの演奏だけのカセットテープを渡した。それを聞いたメイヴィスは、この演奏に何かを付け足す必要があると感じる。それは、ブルースとゴルペルスピリッツを感じさせながらも、ひとつのポピュラー音楽として作品化することを考えたのではなかったか。

 そこでメイヴィスは、ウィルコのジェフ・トゥイーディにアルバム制作を依頼する。このジェフの仕事が素晴らしい。デモ録音にたいして、すき間を埋めるような音作りはしない。どの曲にも絶妙な間合いがあって、その音とすき間が、アーシーなリズムを作る。ミシシッピーの川をゆっくりとうねりながらくだっていくような粘り強さを作り上げる。

 そして随所に入る娘たちのバック・ヴォーカル。あたかも同時に録音しているかのように、それぞれの声が生命力を持って響いてくる。父親の声が、娘たちの声によって命を吹き込まれたかのように。

 死者の気持ちや意志を汲み取ることは難しい。ポップスがこれらの曲を吹き込んだときに、どんな気持ちでいたのか、どうしたかったのか、それは推し量るしかない。だが一方で、本人自身、どう作品にしたらよいのか、つかみかねていたかもしれない。本人も、どのように完成に持っていってよいのか見えていなかった音のかけらである。

 トゥイーディは、未然のままの音を音楽にすることに取り組む。おそらくポップス自身も意識できていなかった音の形、それを最小限の脚色によって明確にした。

新川忠_Paintings.jpg この作品に描かれる世界は、透かしガラスを通してスケッチされたような印象。もう決して実物に触れることはできず、鏡に映った表情だけしか私たちには届かない。その憧憬とノスタルジーが控えめに音楽を流れている。

 シンセサイザーの音が丁寧に重ねられ、奥行きのある世界が造形される。しかし重苦しい感じはまったくなく、軽やかで心地よい。

もっと近くで見つめていたい
柔らかな髪に指すべらせて     「アイリス」

 たとえば、こんな透明な距離感が、このアルバムの風通しのよさを象徴している。

 基本的には内向的なアルバムだ。それぞれの歌の主人公は、彷徨っていたり、漂っていたり、あるいは立ち尽くしているだけだ。ただそこから、ずっと広がる世界を見つめる視線の可能性がある。

果てなくつづいてゆく
空に舞う鳥を見つめ     「ハワースの荒野」
 
ここから始まる 君のすべては
眺めのいいこの部屋で     「眺めのいい部屋」

 そしてタイトルにも使われている「光」の淡さ。輝くような明度はなく、音の中に静かに吸収されていくような淡さである。夜明けの光(「渚」)、霞む風景(「霧の中の白」)、黄昏の光(「ハワースの荒野」)、そして木漏れ日(「眺めのいい部屋」)。たとえ降り注ぐ光があったとしても、それはもはや遠い過去の記憶の風景として、淡いシルエットになってしまっている(「シルエット」)。

 基本的にはどの曲もたゆたうような色調で、リズムというよりも、ゆっくりとしたうねりがよせては返すような印象を受ける。とはいえ、決して感傷的なムード音楽には流れていない。たとえば次のような言葉の音と連なりが、きちんとしたリズムを刻んでいる。

吹き荒れる/西風の
ざわめきも/聞こえない
張りつめた/眼差しで
閉ざされた/心の扉を叩く

 こうした同じ音の連なりによって、曲に適度な張りが生まれ、私たちに爽やかな緊張感を与えてくれる。

 今回のアルバムは10年ぶりに作られた3枚目の作品ということだが、どの曲も本当に丁寧に作られている。歌詞のひとつひとつ、シンセサイザーの一音一音が丁寧に選び抜かれている。もうこの音しかないというぎりぎりのところまでつきつめた厳しい職人技だからこそ、逆に柔らかく包み込むよううな優しい音の世界を創造できたのだろう。