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John Mayer, Battle Studies (2009)

battle_studies.jpg 09年のニューアルバムは、John Mayerのブルース・ギターはほとんど聞かれない。ギターは落ち着いた音色で全体の曲のアンサンブルにとけ込んでいる。心地よいエコーが聞いた静かな印象のアルバムだ。

 アルバムのテイストとしてはHeavier Thingsのコンセプトに近いだろう。しかしそのときには実現できなかった音楽が見事にこのアルバムに実現されている気がする。飾り立てたり、ひけらかしたりすることのない、質素で節制が効いていて、聞き終わった瞬間にゆっくりと心の中で音楽が熟成されていく。ラストの曲を聞き終えるとまた1曲目から聞き直したくなる。

 シンプルな深みーたとえばAll We Everは、アレンジだけとれば叙情的な曲だが、アコースティックなシンプルさと、途中で入るギターがとても控えめで、とても上品な曲に仕上がっている。Perfectly Lonlyはもう定番といえるようなキャッチーな曲だ。しかし決してコマーシャルではない。ただ純粋に楽しんで音楽を演奏している。そこに心ひかれる。Crossroadsのカバーも何の飾りも力みもない。ストイックにブルースギターがはじけて、いさぎよく終わっている。War of My Lifeは、ドラムも単純だし、ギターのリフもほとんど変化しない。Mayerのヴォーカルにもまったく力みがない。でもだからこそ自然体の音楽がすんなり体に染みてくるのだ。

 そしてラストの曲になってようやく、Mayerのしびれるギタープレイが聞ける。この曲はHPで公開されていたライブでもエンディングで演奏されていてかなりの盛り上がりを見せるのだが、アルバムテイクはそれにくらべてばかなり控えめだ。

 聞き込めば聞き込むほどこれは名盤だという確信がふつふつとわいてくる。大人の挑戦としてロックだ。ひとりのミュージシャンをずっと追いかけていく楽しみはこんなところにある。

this_is_it.jpg 開始早々涙してしまった。その後も終わるまで涙、涙。なにせ全編にわたって愛があふれているのだ。家族への愛、スタッフへの愛、ファンへの愛、人間への愛。本当に愛に満ちた人物は、映画の中でバックミュージシャンが証言していたように「フレンドリーで謙虚」なのだ。決して怒ることもない。他者を傷つけることを最も恐れる繊細な魂。そのような魂だからこそ、最終的には環境をまもろうというメッセージを真剣に考えるようになってしまったのだろうか。

 この映画を観ていると、マイケルの音楽がジャンルの垣根を越えていることを実感する。一音、一音へのこだわり、オリジナルを再現しようとする完璧かつストイックな精神、とにかく観客のためを考える、慈悲といってもいいサービス精神。どれをとっても超一流である。

 もちろんマイケルも現役バリバリのミュージシャン。体の切れは指の先にいたるまで精密にリズムを刻んでいるし、高音の美しさもまったくJackson 5のころと変わらない。それから生のバンドのクオリティもすごい。聞いていて匹敵するものとしてはザッパが浮かんでしまいました。ギター=スティーヴ・ヴァイだし・・・マイケルもザッパもすべてを掌握する指揮者のようだし・・・

 人間は完璧に近づけば近づくほど、犠牲にするものも増えてゆく。睡眠も食事も、そうした人間の日常の営みからはるかに遠いところへと行き着かざるをえない。それが不幸なのだ。そしてその不幸な人間が、他人へは無限の幸福を注いでくれるという逆説。そのような逆説に生きるアーティストはもう生まれてこないのかもしれない。

 修行僧にも似た孤高のアーティストの姿がこの映画には刻まれている。そして無限の音楽への愛も。

agnes_in_wonderland.jpg 時間のないときに限って、ついユニオンに寄ってしまう。このときも少しだけと思い店内に入った瞬間に、ピアノの弾き語りに英語の歌詞、転調のきらびやかな曲にすっかりみせられた。Now Playingをみると、アグネスの文字が・・・だがあらためてよくみると、タケカワユキヒデのクレジットである。

 そのときにかかっていたのはオフィシャルのアグネスのほうではなく(こちらはまだ聞いていない)、その再発CDに2枚目として収録されていたデモ録音である。79年に発表されたゴダイゴが全面的にバックアップしたアグネス・チャンのアルバムのことはまったく知らなかった。またゴダイゴは、当時のはやりの曲を耳にしていたくらいである。だがこのデモ録音を聞くとメロディメイカーとしてのタケカワユキヒデの創意に舌を巻く。そう、よいメロディがどんどんあふれてきてしまい、気づくとすでに曲ができてしまっているような、なにも恐いもののない瞬間と言おうか。たとえば当時で思い出すのは、原田真二のシングル三連発だろうか。「てぃーんず・ぶるーす」、「キャンディ」、「シャドーボクサー」と立て続けにシングルがでたのは77年。「てぃーんず」のあとに、「キャンディ」のせつないメロディを聞いたときは、本当になんてこの人は才能がある人なんだろうと思った。そして「シャドーボクサー」はほとんど愛唱歌のように歌詞が浮かんでくるようなキャッチーでクールな名曲だ。

 デモ録音とはいえ、ヴォーカルが重ねられていたり、かなり凝ったつくりで実に完成されている。ビートルズのマジカル・ミステリー・ツアーではないが、マジックでミステリアスなんだけれども、それよりも曲自身のもつ高揚感と、それをしっかりと表現するヴォーカルの力強さに圧倒される。そう、「不思議の国」といっても、ドノヴァンのような伝統歌謡とは違って、彼の曲は洗練されているのだ。

 70年代後半とはどんな時代だったのだろうか。もはや音楽にメッセージ性はなく、さきほどの原田真二や、尾崎亜美、久保田早紀のようなメロディのきらびやかさと新鮮さが世界を明るく染めるような、そんな時代だろうか。

 いずれにせよ30年を経て今回日の目をみたこのデモには、バラードっぽいせつない曲もあれば、ポップスの軽快感を感じさせる曲もある。実に幸福感に包まれたアルバムなのだ。店内では2曲目のJabberwockyのサビのところですっかり購入を決心した。この曲、静かな予兆を秘めたメロディが、いっきに親しみやすいサビにいくところが、本当によいです。そしてWho am I?の静かに幕が開けるようなバラードの進行も素敵。で4曲目はビートルズ〜XTCの路線を忠実に踏んだ曲。と聞き惚れていて、あわてて現物を購入してそそくさとユニオンを立ち去りました。

くるり, 魂のゆくえ (2009)

tamashiinoyukue.jpg 自分がくるりに求めてきたのは何だったのだろうか。それは青春の未熟さ、そして未熟ゆえのたわいもない毒ではなかったか。そして未来へのあいかわらずあいまいな希望。「なにか悪いことやってみようかな」とか、「車の免許とってもいいかな」とか、そうした獏とした未熟さがくるりの魅力ではなかったか。せっぱつまった青さ。どうにもならないいらだちからの毒づき。そんなアンバランスさがくるりの魅力ではなかったか。

 今では新譜の発売日に即購入するミュージシャンはほとんどいない。くるりはその珍しい例外で、発売日前夜に買ってここ三日間聞き込んできた。悪くはない。だがここに並べられた曲はいったい何の表現なのだろうか。何を追求しているのだろうか。必然性とか、性急さのような素人くささはない。だが「太陽のブルース」、「夜汽車」「リルレロ」と続くところなど、もうお約束を聞かされているようで、これらの曲をだれが10年後に思い出すだろうか?

 自分が聞きたいと思うのは、たとえばたくたくで行なわれたバンド編成のライブ。これを聴いていて気持ちよいのは、そのつんのめるような、ライブハウスのテンションだ。もちろん曲自体のもつ魅力もあるけれど、それを超える音楽が発する高揚感、そしてその高揚感を下支えするくるりの技術と表現力。一言「ロックって最高!」と言ってしまえる潔さがある。これを聞いていると、そうしたライブハウスへ足を運ぼうともしない自分のほうが今度はロックをかたるだけの欺瞞に満ちた存在に思えてくる。

 じゃあアルバムに何を求めるのか。それは何らかの意図を貫徹できるはずの場所であり、曲のよさを超えて、私たちにつたえられるそのバンドの音楽へのひたむきさを求めたいと思う。そう、曲のよさについてはそれほど言うことがない。むしろそれを通してこちらに伝わってくる魂の情動こそ感じたいのだ。くるりの最近のアルバムにはそれが希薄なような気がしてならない。そう、Come togetherという感覚。その感覚がだんだん希薄になっているような気がする。

 よい曲ならいくらでもかけるだろう。しかし私たちを今いるこの場所からどこかへ連れて行ってはくれない。そんな失望をこのアルバムに感じざるをえないのだ。