タグ「2006」が付けられているもの

America, Here & Now (2006)

81nyX49vMML._SX355_.jpg アメリカは70年代初期に「名前のない馬」、「ヴェンチュラ・ハイウェイ」、「金色の髪の少女」などのヒット曲を立て続けに出したグループだ。「名前のない馬」は、少しメランコリックだが、ハーモニーが美しい曲。繊細なフォークロックを下敷きに親しみやすいメロディライン。でも単に耳に心地よいポピュラー・ソングのグループというだけではない。「Holiday」では、ジョージ・マーティンを迎え、ビートルズ的な凝った音づくりをしてトータルアルバムに仕上げており、アーティスト性の高さを見せている。

 こだわりがあったとしてもそれをひけらかすのではなく、あくまでもポップに聞かせる。その職人らしさが、このアメリカの魅力ではないだろうか。そして、その姿勢に多くの若いミュージシャンが影響を受けた。

 このアルバムは、ジェームス・イハとファウンテンズ・オブ・ウェインのアダム・シュレシンジャーという、若手のミュージシャン二人がプロデューサーをつとめている。さらに演奏にも参加をしている。敬愛するグループと一緒に演奏するのはどれだけ胸のときめくことだったろう。

 とはいってもそうした若手陣の参加はあくまでひかえめで、音楽的には70年代のアメリカとそれほど変わらない。1曲目はアコースティックギターの旋律から始まる。その憂いのあるメロディラインはまさにアメリカ。2曲目の「インディアン・サマー」は少しノスタルジックな感じにさせられる曲。ここでも間奏のギターのメロディラインが美しい。3曲目の「ワンチャンス」もアメリカらしい、コーラスに比重が置かれた曲。この曲のバックはジェームス・イハだが、その控えめなコーラスが実によい。使い古された表現だけれども、まさに聞いたら耳から離れなくなる素敵なメロディなのだ。

 なかでもAlways Loveは、このアルバムの中ではアップテンポで、ロックっぽいエッジの効いた音とアコースティックの静けさがよいバランスで配置されている、このアルバムのクオリティの高さを象徴する曲だろう。

 4曲目はマイ・モーニング・ジャケットのジム・ジェームスの曲。6曲目の「ライド・オン」という曲にはライアン・アダムスとベン・クウェラーも参加している。こうした若者たちに囲まれてアルバム制作がされたわけだが、企画物ではまったくない。どの曲も新鮮で色褪せない魅力をたたえている。

Derek_Songlines.jpg ロックに惹かれる理由は、結局のところロックというジャンルが曖昧で、雑食であることにつきている。クラシックでもジャズでも民族音楽でも、ロックっぽく演奏することができる。その意味でさまざまなジャンルの音楽を浸食してしまうのがロック。でも何でもありだからといってそれでよい音楽ができるわけではない。ロックミュージシャンの優れた人は多かれ少なかれ、優れた探究者でもあった。

 今のロックの世界でその探究を最もどん欲に進めているのがデレク・トラックスではないだろうか。そしてそのロックの探究を頭でっかちではなく、あくまでも心地よい喜びの生まれる音楽として実現したのがこのSonglinesである。このアルバムではジャズ、ソウル、宗教音楽、民謡、さまざまな伝統を持つ音楽が、デレクによって解釈され、演奏されている。他人の曲でありながら、そしてライブでもないのに、とても生き生き感じられるのは、まさにかれらがジャム・バンドであり、メンバーのやり取りを通して音楽が今ここで生まれているからだろう。

 1曲目はローランド・カークの曲だが、まずタンバリンから入り、パーカッションが重ねられた後、デレクのスライドが切り込んでくる。そしてかなり黒いコーラスがアルバムの開始を告げる。そして、ドラムの一打で次の曲へと移る流れが心地よい。この2曲目はデレクとプロデューサーとの共作。曲の間で、ドラムがリズムを刻みながら、キーボードが全面に出て、ワンクッションあいた後にギターのソロが始まるところなど、バンドの一体感を生き生きと感じる。

 3曲目はブルースナンバー。4曲目はイスラム宗教音楽のヌスラット・ファテ・アリカーンの曲のメドレー。10分近く続くインストゥルメンタルの曲なのだが、この曲こそ、アルバムの中でもっとも挑戦的で志の高いデレクの演奏が堪能できる。最初のシタールようなギターの演奏から始まり、1つのフレーズが、変奏されながら、バックのドラム、コンガと呼応する。フルートの音色もまざり、演奏が次第に熱を帯びてくる。そして最後は熱狂的なリズムへと変調し、ゴスペルにも似た密度の高い演奏へと、ハンドクラップとともに一気に上り詰めていく。この曲は実際にはロックには聞こえないかもしれない。しかしイスラムやインドという地域に限定された音楽ではなく、音楽そのものが普遍的にもつ高揚感を実現しているところにロックのスピリットをひしひしと感じるのだ。この解釈はアルバムの一つの到達点と考えてよい。

 5曲目は、スライドギターによるディープなブルースナンバー。タジ・マハールが演奏する同曲のファンキーなブルースの熱気をここにも感じるが、こちらはずっとアコースティックな演奏。6曲目は、レゲエを下敷きにした軽快な曲で少しここでリラックスできる。そしてタイトな演奏のオリジナルの7曲目へと続く。8曲目はソウル歌手O.V.ライトの曲だが、ワウワウとエコーを効かせた面白い処理をしている。9曲目はオリジナルの楽曲。10曲目もオリジナルで、モロッコの民族音楽を意識したインストゥルメンタルだが、その音調をギターでしっかりと再現しているところが面白い。11曲目はグリーンスリーヴスの解釈だが、デレクの超絶ギターテクニックが堪能できる。12曲目はソロモン・バークのカバーだが、軽快な乗りで、デレク・トラックスがライブバンドであることを強く印象づける。とりわけマイク・マッチソンのヴォーカルが素晴らしい。そしてアルバムの最後はそのマイク・マッチソンの曲This Sky。やはり中近東風のギターフレーズが繰り返されながら、fly fly awayと歌われるように、だんだん空へと上がっていく開放感のある曲。

 デレクがこのアルバムを制作したとき、まだ27歳であった。すでに十分なキャリアを持ちながら、さらに自分のギターの表現の可能性をとことんまで突き詰めた意欲的な作品である。この創造へのどん欲さこそロックだと呼びたい。

Brett Dennen, So Much More (2006)

so_much_more.jpg シンガーソングライター。自分で作詩、作曲をして、自分で歌う。とてもパーソナルな行為とはいえ、そうしたシンガーソングライターが生まれたのは、70年以降のバンドスタイルとは異なる、内省的な表現形態を求めていた時代の要請があったからだ。どれだけ個人的にふるまおうとも、そうしたふるまい方自体を社会が求めていた。だからこそシンガーソングライターは、自分を歌いながらも社会的な求心力を持ち得た。ニール・ヤングの『アフター・ザ・ゴールドラッシュ』は、たとえばそうした力が、さらに時代を超えて普遍性を持ちうる代表的なロックアルバムだ。

 では今現在シンガーソングライターであるとはどんな意味を持つのだろうか。たとえばすでにキャリア十分のRon Sexsmithがいる。あるいはJack Johnsonのようなひとつのムーブメントを作れるミュージシャンもいる。だが彼らの音楽には時代と切り結ぶ緊張感はない。社会自体が音楽にそれほど強い切迫感を要求しないからだろうか。そうするとシンガーソングライターの善し悪しは、まずはその曲の雰囲気、特にパーソナルな表現としての憂いのようなもの、そして声質で決まってしまうところが大きいだろう。そうした資質のよって音楽の価値が決まってしまうのが、今のシンガーソングライターだろうか。もちろん彼らの音楽は胸をうち、人々に愛される。だが、どれほど多くの人に彼らの声は届くだろうか。結局はある趣味を同じくする人々にとっては愛される、しかし、そのコミューンに属さない人には素通りするだけのイージーリスニングに終わってしまうのではないだろうか。Jack Johnsonは優れたミュージシャンだとは思うが、そのムーブメントは単なるムードと言い換えてしまってもよいような希薄さがどうしてもつきまとう。たとえばふだんブラックソウルを聞かなくても、ウィルソン・ピケットを聞いて感動したり、そうしたジャンルを越えて届いてくるような波及力をどれだけ持ちうるのだろうか。

 Brett Dennonは、まさにその声質が魅力的なミュ−ジシャンだ。かすれた、線の細い声は、他のだれにもまねしようのない天賦のものだ。一瞬男性なのか女性なのか分からない中性的な声は、一度聞いたら彼だと分かる。そして曲全体をおおう憂いとその声質はみごとにマッチしている。曲調は、ただ自分が歌いたいことを歌ってしまったようで、何らかの影響を感じさせることなく、自由だ。だがそれは同時に、曲自体の必然性、「こう歌わざるをえない」とか、「こういうメロディ、アレンジにせざるをえない」というような必然性が希薄だということにもなっている。それはニール・ヤングとは究極的に反対の世界だ。だから曲の美しさが、単に耳に心地よいことの同義になってしまっている。こちらの気分にあわせてどうとでもなる音楽といおうか。ニール・ヤングには、こちらの気分を変えてしまうほどの強い求心力がある。だから誰にでも聞かせられる音楽ではないだろう。でもBrett Dennonならば、そんな心配はない。

 アメリカのインターネットラジオで聞くと、ぐっと印象に残るが、アルバムを通して聞くと、結局さらっと流れていってしまう。声のよさ、曲のよさに聞き惚れるならば一曲だけで十分なのだ。そうしたミュージシャンはアメリカに数多くいる。それがアメリカの豊かさなのだけれど。でも、そこからアルバムで聞かせてくれるミュージシャンはどのくらい生まれてくるのだろうか。こちらを振り向かせ、日常を違った空気で染めてくれるミュージシャンはどのくらいいるだろうか。

Tété, Le Sacre des lemmings (2006)

le_sacre_des_lemmings.jpg Tétéの3枚目にして、代表作といえるアルバム。1stのビートルズ、ボブ・マーリーに触発されたフォーク・ロックを聞いたときに、フランスにもついに野暮ったさとは無縁のロック・ミュージシャンが現れたと感動した。セネガルで生まれ、その後すぐにフランスへ。そのせいかアフリカを背景に感じさせるものはなく、かといってフランスの音楽の影響もない。そんな無国籍のなかで育まれたのがTétéのロックだ。とはいえ、とくにボブ・マーリーの影響は明らかで、たとえ彼のRedemption songが最高の1曲だといっても、それは素直なオマージュ、レスペクトにとどまっていた。

 2枚目は、叙情性のあふれる美しいアルバムである。メランコリックで繊細なTétéのよさが出ている。とはいえトータルなコンセプト性は薄く、「よい曲を並べました」という印象が強い。

 だが、この3枚目はアルバム全体を貫くコンセプトが明快であり、ついにミュージシャンがアーティストになったと確信させる傑作となった。「レミングの朝明け」で幕が開け、「レミングの夕暮れ」で幕が閉じられるまで、ひとつの色調で曲が成り立っている。その色調とは、「悲喜劇」だ。喜びのなかにある悲しみ、ペーソス感といおうか。単に叙情性に流れないドラマがどの曲にもある。そのためどの曲も3分かせいぜい4分なのに、十分聞きごたえがある。

 Fils de ChamやLa Relanceで聞けるとぼけた雰囲気のなかに哀れみを感じさせるようなメロディはTétéにしか作れないオリジナリティあふれるものだ。Madeleine Bas-de-LaineやCaroline On yeah Heyは、Tétéらしい繊細かつポップなメロディが美しい佳曲。そしてComme Feuillets au ventのように懐かしさやせつなさを感じさせる美しいメロディ。またA la vie à la mort、A Flanc de Certitudes、Mon Trésorのようなジプシーとは言わないが、昔の民衆歌謡を彷彿とさせる曲もある。

 このように書くと、きわめてバラエティに富んだ印象もうけるが、Tétéの曲にはどれにも単純にはわりきれない情感の豊かさを感じる。その情感の起伏に今回のアルバムでは特にストリングスなどのオーケストラをバックとして、奥行きが与えられている。

 アフリカ、パリ、モントリオール。Corneilleはそうした旅を余儀なくされた人物であるが、彼の音楽は素直なほど、アメリカのソウルの文脈に忠実である。それに対してTétéは同じように音楽の旅を続けながら、そしてどんよくに様々な音楽を吸収しながら、やがて彼にしか作れない、豊かな叙情の音楽へと至った。その美しく細いヴォーカル、決してわかりやすくはないが随所に感じられるユーモアセンスや寓話性に満ちた歌詞、そして最初からTétéの才能を決定づけていたメロディの美しさ、それらをすべて含みこんだうえで、出来上がったのがこのサードアルバムである。

taking_the_long_way.jpg Dixie Chicksのこのアルバムと前作を聞いて思うのは、フリードウッドマックをあらためて聴き直したいということだ。カントリーという名称がほとんど意味をもたない良質なポップな曲がならぶChicksのアルバムだが、その影響が実はフリードウッドマック、スティーヴィ・ニックスにあることを実感する。前作では一曲カバーもしているが、繊細でありながらも、力強さを感じさせるヴォーカルの唱法は、そんなところからきている感じがする。

 自分の聞く音楽のなかで、これほどまでに直裁なメッセージをもった歌をうたうミュージシャンも珍しい。だが、それはアメリカの今ときちんと向き合った、正々堂々とした内容だ。自分の感情や考えの変化、あるいは何があっても変わらない自分の芯としている部分。自分を見つめ、自分と社会のつながりを見つめる視線は、誠実で説得力をもつ。そしてそれが先鋭的なメッセージソングとならずに、美しいメロディに乗せて歌われるところが、アーティストとしての奥深さを感じさせるところだ。Not ready to make it niceは、強い意志をもって歌いあげる決意表明の歌であるが、決して感情の起伏にまかせた歌いかたではない。シャウトする寸前までいきながら、しかしあくまで歌を伝えようとする冷静な意志がある。

「成熟・深み・知性」。ライナーノーツに載っていたインタビューの抜粋だが、この女性バンドを表すもっとも本質的な表現であろう。

 そしてこのアルバムにはもうひとつ「優しさ」がある。Lullabyのような素敵な曲がおさめられているのもこのアルバムの魅力だ。

 ここまで書いてきてあらためて思うのは、このバンドは「カントリーバンド」ではまったくありえないということだ。ぼくにとってのカントリーはウィリー・ネルソンです。彼女たちはそんな安易な制約などとっくに破ってしまっている。クオリティの高い音楽は、どんなジャンル分けも無効にしてくれる。

passing_show.jpg 冒頭の、イギリスの田園風景をツアーバスが走り、ミュージシャンたちのインタビューが挟まれるシーンをみただけで、この映画がいかに素晴らしいかよくわかる。ロニー・レインの生涯を素直に追っていく構成だが、使われる映像、写真、そして曲の選択、どれもがいかに制作者がロニー・レインを愛しているかを教えてくれる。

 70年代にキンクスがPreservation を発表し、いったいどこに行ってしまうのかという混沌とした状況の中で、結局はアメリカに渡り、ハードロックバンドとして成功を収めたのに対し、ロニー・レインの場合は、そうした道に重なるようでいて、決してショー・ビズの世界には身を染めなかった。

君と一緒に目覚める
朝の光がさしこんでくる
外では犬の鳴き声がする

 ファーストソロアルバム(Anymore for Anymore)に収められているTell Everyoneの一節だが、ここに描かれる農村での生活の情景が実際にはどのようなものであったか、今回の映画をみてよくわかった。ファーストアルバムは、セカンド、サードにも増して名曲ぞろいだが、これら素晴らしい曲が、こうした生活だったから生まれたのか、それともこうした生活をしていたにもかかわらずなのかよくわからない。それほどロックとは遠く隔たった世界なのだ。でも仲間との演奏が、農作業や、パブでの談笑や、そうした日々の一部であり、彼らの生活そのものから生まれてきたことはとてもよくわかる。

 普通に考えれば、ロニー・レインほど、ロックの裏街道のような人生を歩んだ人もいないだろう。なにせまわりにはスティーブ・マリオット、ロッド・スチュワートという、稀代のヴォーカリストがいた(映画では彼らがいかに才能があり、ロック的興奮のるつぼにいたのかを実感させられるライブ映像があって、どぎもをぬかれる。ロッドスチュワート、まさにスーパースターです)。そしてクラプトンにピート・タウンゼント。マリオットを除けば、みなロックの栄光を掴んだ連中だ。そんな人脈がありながら、ロニー・レインだけはロック的成功とは縁遠い生活を送る。

 インタビューの中で、「みな、アメリカへ行こう。アメリカに行けば成功が待っている。しかし実際に行くことはなく、バンドは解散した」という証言がある。すでに病の予兆があったのかも知れない。ロニーは、田舎の生活を続ける。その後多発性脳脊髄硬化症の基金設立のためにようやくアメリカへ行ったときには、基金を横領されるという不運に見舞われる。みなが成功したその場所でロニーだけは裏切られるというのが何とも痛ましい。

 マリオット、スチュワートというカリスマティックなヴォーカルがいたので、目立たないのだろうが、しかし、ロニーのヴォーカルはとても素敵だ。何と言ってもアコーディオンやマンドリン、そうしたトラディショナルな演奏に見事に溶け合った声だ。スリム・チャンスに関係する、グリースバンド、ギャラガー・アンド・ライル、マクギネス・フリントも同じ空気をもっていて楽しめるが、やっぱりロニーのヴォーカルが最高だろう。

 映画の最後の方で、病気が進行し、もうベースも弾けなくなった(バンドを始めたころ一番人気のなかったベースを担当したというのもロニーらしい)ロニーが、腰をかけて、精一杯声を振り絞って歌う姿が素晴らしい。これが音楽だと思う。ロックを聞いてきて、ロニー・レインに会えてよかったと思う。

 インタビューに答えたすべての人々がロニーを愛していた。ロニーのレコードを聞けば、だれもが彼を愛したくなる。そうならないではいられない。

 ロニー自身が最後に言っている。「人生は短編映画だ」でも、その短い一瞬に無限の愛が込められている。