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41b6JqfXSmL._AC_SY355_.jpg レスリー・ダンカンは1943年イングランド生まれのシンガー・ソング・ライター。The Everything changesは彼女の3枚目のアルバムにあたる。エルトン・ジョンがまだ内省的な曲作りをしていた時代の最後に発表された1970年の3枚目Tumbleweed Connectionに、彼女の作品であるLove Songが収められている。本人が、バックコーラスだけではなく、アコースティックギターも弾いている。この後のきらびやかな作品群に比べれば、かなり地味とはいえ、ピアノの音色やストリングスによるエルトン・ジョン的世界を十分に体現しているこのアルバムにあって、ギターだけの質素なLove Songは異質な印象を受ける。それでもこの曲にはエルトン・ジョンがもともと持っていた憂いを帯びた静謐な世界が描かれている。

 寒天の空のもと晴れはしないけれど、それでもかすかな柔らかな日差しが差し込んでくる。ブリティッシュ・フォークはそうした薄い光をイメージさせるが、レスリー・ダンカンの声も曲調も、当時のフォークの質感にとてもよく合致している。とはいえメアリ・ホプキンスほどフォークロアを感じさせることはない。おそらく自分で曲を作れたことから、そのソングライティングのセンスのままで、あまり伝統を意識する必要はなかったのかもしれない。

 「英国女性シンガーソングライター」という肩書きは1枚目と2枚目によりふさわしい。このThe Everything changesが出されたのは1974年で、フォークソングの時代が終わろうとしていた。そのためかバックの演奏も結構厚みが増しているし、ストリングスにも工夫が施されている。だからといってレスリー・ダンカンの歌には余分な力は入っていない。若干低めの、落ち着いた声で歌い、決して声を張り上げることはない。

A面の1曲目こそ多少勢いの強い曲調になっているが、全体としてはアップテンポな曲はなく、まろやかなヴォーカルアルバムとして
仕上がっている。特にB面はもはやフォークというよりも、むしろカーペンターズのようなポップスに近い。レスリー・ダンカンもカレン・カーペンターも、ポピュラーな曲調であっても、声に力強さを失わないところが魅力だ。だから単に耳障りがよいのではなく、私たちの心にまでしっかり伝わってくる。
 
その後の4枚目以降はもはや「メロウ・ソウル」といったほうが、アルバムの表情が伝わると思うが、このアルバムではまだそこまで
音の輪郭がシャープにはなっておらず、ひかえめな雰囲気が保たれている。冬の薄曇りの昼下がりに聞くにはぴったりの音楽だ。 
 

fulfillingness_first_finale.jpg 前作Innervisionsは、完璧な作品で、一音一音まで緊密に構成され、その完成度の高さに聞き終わるとちょっと脱力状態になってしまうが、このFirst Finaleは、もう少し余裕をもって聞けるアルバムである。

 それはたとえばToo shy to sayやThey won't go when I goのようにメロディだけとるならば、あまりにも直接的で平明な曲があるからかもしれない。

 だが24歳にしてすでに人生の「ファースト・フィナーレ」と言ってしまうほどアルバムの充実度は高い。ポップでいて驚きに満ちた音楽だ。その驚きというのは実は細かいところに現れる。たとえば1曲目、さびのBum, Bumのバック・コーラスの「ニャー」というかけ声が不思議だ。

 このアルバムで一番好きなのはA面5曲目のCreepin'。のっけからドラムスの入り方がかっこいい。その後もこの曲はシンセではなくて、ドラムスが見事におかずをいれながら入ってきて、甘い愛の歌にもかかわらずタイトな雰囲気に仕上がっている。それから2曲目のゴスペルタッチのHeaven is〜。こちらの気分をいやがおうにも高揚させてくれる。

 B面にはいると、ファンクのねばりこいリズムにのせて、曲がはねる。「ジャクソン5が僕と一緒に歌うよ〜」っていうところもノリノリでいいです。最後のPlease don't goも卓越したセンスを感じる曲だ。おなじみのハーモニカもよいし、Tell me whyの力のこもった歌い方もよいし、Don't go babyとたたみかけてくるところの迫力、そしてクラップ音がはいってゴスペルテイスト全開で終わっていくところなど、まさにフィナーレだ。

 高みに達した落ち着きが感じられるとはいえ、音はあくまでカラフルだし、ヴァラエティに富んでいる。やりたいことをそのままできてしまえる、そのような天才の恍惚を満喫できる一枚だ。

streetlights.jpg 前からちゃんと聞きたいと思っていたが、1枚もアルバムは持っていなかった。先日ラジオでかかっていたAngel from montgomeryがあまりにいい曲だったので、この曲がおさめられているアルバムを購入した。それ以来この曲、ヘビーローテーションである。

 R&Bの姉御として、渋いギタープレイを聞かせてくれ、90年にグラミー賞を受賞してからはその迫力にますます拍車がかかるとともに、円熟味をみせているBonnie Raittだが、このアルバムはなんと全編ヴォーカルアルバムである。その意味では特殊なアルバムなのかもしれない。豪快さや颯爽としたところもないまろやかなアルバムだが、だからと言って決して悪いアルバムではないのは、取り上げている曲がすばらしいからだ。

 プロデューサーはJerry Ragovoy。60年代の有名なプロデューサーとのこと。このあたりの人脈をもっと知らねば・・・。

 1曲目、2曲目はジョニ・ミッチェル、ジェームス・テイラー。そして3曲目にAngel〜がかかる。これはJohn Prineの曲。このミュージシャンもアルバムを聞いたことがないのだが、小尾さんのSongsでは、この曲の歌詞もひきながら紹介されている。たそがれ感がただよいつつも、大地にしっかりと根ざした確信がひしひしと伝わってくる名曲だ。

 このアルバムが必ずしもBonnie Raittのアルバムである必然性はないのかもしれない。それほど切実な歌い方ではないし、この時代の才能ある女性ミュージシャンならば多かれ少なかれアプローチしていた方法だと思うからだ。アメリカのルーツを意識しながらもあくまでもポップ。とはいえAORにはならず。趣味のよいストリングスが入り、スタジオ・ミュージシャンによる粋なアレンジの上に、ヴォーカルがかぶさってくる。

 ただここに歌われている曲は、彼女がとりあげたことで、よりいっそうこれからも歌われ続ける、歴史に埋もれたりはしない名曲であることを確信させてくれる。とにかく曲が生き生きしているのだ。結局はアルバム通して一気に聞いてしまえるご機嫌な音楽なのだ。

The Eagles, On the Border (1974)

on_the_border.jpg イーグルスというバンドはアメリカらしさを体現しているバンドである。70年代にアメリカの失墜と衰退を象徴するようなホテル・カリフォルニアは、当時のアメリカの雰囲気をよくもわるくも表現している名曲だ。

 アメリカとはどのような国なのか。第二次世界大戦後、戦争に入ることのなかった日本と比べるとき、アメリカはまさに戦争をし続けている国ではないだろうか。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、そして最近のアフガニスタンにいたるまで、アメリカの戦後は戦争をおびただしく繰り返してきた時代である。それほど緊迫した状況にありながら、それをロックは表象してきただろうか。

 ベトナム戦争の無意味さを「私」の体験として語ったオブライエンのような作家がいる一方で、アメリカンロックはそれほどの鮮烈な虚しさをはたして表現しえたのだろうか。そう考えるとき、自分自身のロックの聴き方がそうした批判意識のない、メロディ主体の聴き方で、十分歌詞を理解しない浅薄な聴き方だったことをあらためて反省してしまう。

 しかしイーグルスがたんなる叙情的なバンドではなく、ハードにタイトに自分たちの音楽を飾り立てようとしたとき、時代を穿つような指向はすでに消え失せてしまったのではなかったか。たとえばホテルカリフォルニアにベトナム戦争への言及を読み込むことができるのかもしれない。しかし当然ながらイーグルスにプロテストソングはないだろうし、とがった楽曲もほとんど存在しない。その意味ではイーグルスのカントリー指向はまさに意匠、さまざまな歴史性を捨象したところに生まれる「スタイル」なのではないか。

 思想などなんにも感じない。だからこそ安心して聞ける。そんな時代の要請に舵を切って見事に成功したのがイーグルスであり、土着性さえも振り切って、タイトにせめたのがこのサードアルバムOn the Borderである。

 もちろん泣けるアルバムだ。なかでも4曲目のMy Manはグラム・パーソンズをしのんだ曲ということで、バーズっぽいフレーズをはさみながらじつに胸にこみあげる名曲。そしてもうひとつの極が、次のOn the Borderのようなハードな曲だ。

 こうしてイーグルスは私的な叙情性とロックを産業として成り立たしめるハードな形式性をうまくとりまぜて制作している。それがこのアルバムの後に実に見事にはまることになり、イーグルスは押しも押されぬビッグバンドとなる。

 しかしイーグルスの音楽は時代をえぐるよな切実さをもはやたずさえてはいない。それはこれ以降のアメリカがまるで思想性など必要としなかったことを表しているようである。ジェームス・ディーンという曲などそのおめでたさしか感じられない曲である。

 もちろんイーグルスのメロディは美しい。しかも懐かしい美しさだ。その美しさは前の時代への追憶でもある。思想性をはぎ取った美しさ。感情の暴発とは関係のないハードな音楽。しかしだからこそ万人受けするのだろう。少しばかりの後ろめたさと喪失感。でもイーグルスはそれを本当に表現しているわけではない。それは「スタンス」なのだ。

 いま最後のThe Best of My Loveという全米チャート1位の曲が流れている。なんの文句もつけようのない美しい曲だ。微妙な潤いがこちらの気持ちを鎮めてくれる。ほとんどBGMといってもよい心地よさ。もしそれ以上のものがあることがアートだとするならば、イーグルスは形式性を無視して、なにを私たちに運んでくれるのだろうか。

Booker T, Evergreen (1974)

evergreen.jpg Booker T.のファーストソロアルバムはプリシラとの3枚目の共作の翌年に出されているが、そうは思えないほど、アルバムの色調が違う。このソロには軽快さがあふれている。もう少しで、AORと言ってもおかしくない曲が多いが、ファッションな音楽ではまったくない。それはここで聞かれる音楽ジャンルの豊かさのせいだろう。ゴスペル、ソウル、ジャズ、さらにはフュージョンの雰囲気までも・・・だがそのどれもが強く自分を主張したりはしない。あくまでもひかえめな演奏が、アルバムを単純な色で染めあげることを防いでいる。

 たとえばA面3曲目のTennessee Voodooはタイトルからも、ヘヴィなスワンプロックを期待するところだが、パーカッションも軽妙で、情念といったものを感じない、それがプリシラとの共作と最も異なる点だろう。Bookerのハイトーンヴォイスは、あくまでも颯爽と、そしてやさしく歌を歌う。この軽やかさがアルバム全体の演奏にも言える。たとえばA面4曲目のSong for Caseyのベースラインなどに象徴的に現れているのではないだろうか。またB面1曲目のEvergreenは、ハモンド・オルガンの音がすべるようにながれてゆくのも、心地よい。 

 インストが2曲収められているが、このアルバムの素晴らしさは、結局Bookerの声の質感にあると思う。白人特有の、とか、黒人特有の、といったよく使われる安易なクラス分けには一切くみしない、普遍的な美しさをたずさえた声だ。もちろんJamaica songはピースフルな名曲だが、2曲目のMama Stewartの生ギターとヴォーカルのハーモニーもよい。A面最後のSong for Caseyは、たとえばSteve EatonあたりのAORを感じさせる軽快な一曲だ。B面3曲目のWhy meはゴスペル・ソング。とはいえ、Bookerの歌い方はあくまでもソフトで、たゆたうようだ。憂いといってもいいほど、繊細な歌い方。そしてサビのところのオルガンの音。ゴスペルなんだけれど、そうしたジャンルをこえて歌そのものへの愛情が感じられる。 

 そう、歌を歌うことへの愛情、その愛情がこのアルバムからは伝わってくる。Jamaica Songでは子どもたちが歌い、手拍子をあわせ、Bookerのまわりに集まってくる。歌がもたらす平和と愛。それはStevie Wonderの『心の詩』などにも感じる、作為のない無限の愛だ。

the_psychomodo.jpg ブリティッシュ・ロックの芸術表現としての高まりは、アルバムをひとつの作品として仕上げるというコンセプチュアル・アートの運動としてとらえることができるだろう。そうしたアート性を志向してゆくと、ビートルズのように歌って踊らせるようなコンサートはできなくなる。スタジオにこもって、幾重にも音を重ねてゆく作品はステージでは再現不能だ。

 しかしコンセプチュアル・アートはアルバムとしての作品志向以外にも、ステージ自体をひとつの芸術表現の舞台として、スペクタル的な要素を強めていく方向性ももつ。つまりショーだ。そのときに「きわもの」的なショーとしてアートを実践したのが、デヴィッド・ボウイであり、ロキシー・ミュージックであった。その系譜にこのコックニー・レベルは属するだろう。プログレッシヴ・ロックではないのだが(といっても、このCD、プログレッシヴ・ロック・シリーズと銘打たれたアルバムの1枚として発売されている・・・)、それでもアルバムはひとつの様式美で貫かれている。その様式美とは、頽廃だ。

 先日フランスのTéléramaが提供してくれているpodcastのロック番組で、Voix fragiles(壊れやすい声)というタイトルでイギリスのロックヴォーカルを特集していた。Kinks, Prety thingsそしてその次がこのコックニー・レベルのTumbling downだった。The Psychomodoのラストを飾る曲で、か細い、ひきつるような、そして粘着質のスティーヴ・ハーリーのヴォーカルが最後に絶叫に代わる、スケールの大きな曲だ。

 久しぶりにアルバムを聞いているうちに、プログレとの親和性を示しながらも、大作志向ではなく、あくまでもひねくれたポップセンスにこだわるバンドがこの当時のイギリスにはいたことを思い出した。Deaf SchoolやKorgis、そしてStackridgeなどである。

 しかしその中でもとりたてて、頽廃美にこだわっていたのがこのコックニーレベルだろう。抽象度の高い歌詞には狂気ということばが散見する。だがそれはあくまでも周到に演出された狂気であって、役者はあくまでも冷静に狂気を演じる。そうした人工的な美しさがこのバンドの魅力だ。特にこのアルバムは全編にわたって、道化師の皮肉な笑顔とでも言えるようなパフォーマンスが繰り広げられている。こうした歪んだポップというのはいかにもイギリスのロックのものだ。

 ちなみにYoutubeにも何本も動画があって、75年のヒット作Make me smileを初めて聞いた。たしかに以前の毒気は影をひそめているが、鼻につまった、うれいをおびたヴォーカルは依然として魅力的だし、曲も質の高いポップソングだ。A級では決してないけれど、でもこうした卓越したメロディは誰にも書けない。こんな歌い方も誰もできないだろう。70年代のあだ花のような感じが一見するが、じつはスタンダードなポップソングをかいていたのが、このスティーヴ・ハーリーだと実感した。

blood_on_the_tracks.jpg『血の轍』は、おそらくディランの数々の素晴らしいアルバムの中で、「歴史的名盤」、ロックの歴史を刻む記念碑的アルバムではないだろう。むしろきわめてプライベートな愛聴盤として、ごく個人的に孤独のうちに聴かれながら、実に多くの人々の心をとらえきたアルバムと言えるだろう。きわめて個人的な事柄が、大きな普遍性をもつ、その意味でこのアルバムは、名盤である。

 これだけ美しい曲が並んでいるのに、好きな女の子にあげる編集テープにはどの曲も入れられない。それがディランのヴォーカルの魅力。みうらじゅんが書いていたが、なんでこんなダミ声の唸るような歌が、心を引くのか。本当にそう思う。中学生のときに聴いたディランは、とにかく曲という体裁を感じられなくて、ブツブツ言っている感じがして、聴けなかった。

 ディランをあらためて聴いたのは大学時代の先輩の最も好きな曲が、このアルバムにおさめられている、You're gonna make me lonesome, when you goとIf you see her, say helloだというのを知ったからだ。

 このアルバムにはディラン自身の別離から始まる、喪失やあきらめや、人生へのまなざしといったものが痛々しいほど散りばめられている。

 Simple Twist of Fate「運命がくるっと回る」とでも訳せばいいのか自信がないが、

彼が目をさますと 部屋はからっぽ
彼女はどこにもいなかった
彼はかまうことないと自分に言い聞かせ
窓を大きく開けて
空虚を中に感じた
それは彼がかかわることのできない
運命のひとひねり

 朝目を覚ます。それは毎日訪れるささいな事柄だ。昨日とも明日とも変わらない。しかしそこではすでに運命がひとひねりしてしまっている。今日からは空虚なのだ。この喪失がこのアルバム全体を浸している。Lonesomeからsay helloまで心はどのような軌跡を描くのだろうか。それが描かれているのがこのアルバムである。

 その軌跡とは「血の轍」である。心から血を流すディランの痛ましさが、ロックという音楽に乗って、同じ心を持つすべての人を訪れるのだ。

taking_tiger_mountain.jpg Brian Enoは、私がロックを聴き始めたころに知った名前のひとつである。最初に夢中になったのは、Police, Elvis Costello, Ian Dury and the BlockheadsそしてTalking Heads(この中でPoliceだけがライブに行ったことがない!再結成ライブには行かねば)。このTalking Headsのプロデューサーとして、そしてDavid Burnとアルバムを作ったミュージシャンとしてEnoの名前を知った(発売日の前の晩に、閉店ぎりぎりに金宝町の電波堂にて購入)。その後 Discreet Musicを聞いたりはしていたが、ロックミュージシャンとしてのEnoの音楽はずっと聞く機会がなかった。70年代後半のEnoは事実、ロックミュージシャンを半ばやめていたのではないだろうか?

 大学に入ってしばらくしてから、友人が「Enoはこんなことをしていたんだよ」と貸してくれたのがTaking Tiger Mountainである。聴いてすぐ、そのポップセンスにうたれた。Enoのソロ4枚は、動から静を描いているが、このアルバムはまさに躍動感のあるポップミュージックである。Another Green WorldのB面や、Before and after scienceのB面における、静謐なメロディも大好きだが、1st, 2ndはそのジャケのごちゃごちゃ感もあいまって、Enoのポップへの病的とまで言えるこだわりを堪能させてくれる。

 このアルバムを聴くと、Talking Headsとの共通点が、まずはなによりもその「ひきつり感」にあることがわかる。たとえば一曲目のギターのリフなどは、なんだか普通ではない。しかし曲調には上品さがあり、このアンバランスがおかしい。二曲目も三拍子にEnoのひきつったボーカルがかさなるのがなんともミスマッチだ。他にもバックヴォーカルの声質とか、数え上げたらきりがないほど、「ビザール」なレコードだ。70年代初頭のポップとは、このエキセントリックさをいかにポップなものとして仕上げるかにその価値があったのではないか? それは職人といってもよい作業である。そうしたテイストがたとえばバウハウスのようなバンドに引き継がれていったのもおもしろい。つまり「ひきつり感」は、ニュー・ウェーブの先鋭性にもつながりをもつのだ。70年代に多くのミュージシャンがプログレに流れていったが、そうした大げさな音楽ではなく、あくまでも3分間のポップ・ミュージックにこだわったのがEnoである。そのひねくれ感こそが、次の世代を用意したのだ。B52'sや前述のTalking HeadsそしてDevo、Ultravox のようなテクノ黎明期のバンドもふくめて、Enoがその出発点であったことはこのアルバムがはっきり示してくれる。たとえばB面3曲目の反復されるメロディは、この数年後にうまれてくる交配雑種のニュー・ウェーブの音をすでに実現している。それは801Liveのような冗長なプログレとは完全に一線をかくしている。

 B面の最後Taking Tiger Mountainは、そうしたアグレッシブなポップの雰囲気にあって、唯一、けだるさを演出してくれるインストゥルメンタルの曲だ。この曲を初めて聴いて、おそらく僕はロックにおける成熟を知ったのだと思う。それはロキシーの喧噪からぬけだした、Enoの音楽に対する意思表明でもあった。そのEnoの姿に背伸びして、自分のロック観をかさねあわせていたのだろう。