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TLBarrettCover.jpg 宗教の話をフランス語でしていると、なかなか話がかみあわないことがある。それはreligionという単語の意味するところが日本語の宗教とはときどき異なるからだ。教義や宗派の話をするならば問題はないのだが、人の心の精神性について話すときはspiritualitéといったほうが齟齬が少ない。

 ゴスペル音楽が、キリスト教のための、あるいはアフリカンアメリカンのためだけの音楽ではなく、信仰者でなくとも、その心に響いてくるのは、もっぱらその音楽が高いスピリチュアリティをたたえているからではないか。それはたとえ神を想像しなくとも、自分の存在を遥かに越える圧倒的な力に引き寄せられる感覚を私たちの中に生むからではないだろうか。

 ゴスペル音楽をひとつの職能として、アーティストとして活動している人たちが多くいたわけだが、牧師自身も歌い手として、その声を教会に集う信者に聞かせていた。このアルバムのバレット牧師もそのひとりである。バレットはシカゴの教会で聖歌隊を結成し、若者たちを教会に足を運ばせるよう活動をした。それは単に信仰に誘うというだけではなく、60年代のアメリカにおいて、何とか真っ当に生きるための生活の場という意味があった。

 教会で歌われた音楽はレコードに録音され、人々の生活に染み渡っていたのだが、そうした音楽は地域に密着しているがゆえに、より大きな反響を得ることは少なく、あくまでも対象は信仰者のためのものであった。

 このバレットが録音したレコードも同様であるが、2009年、マニアックなソウル音源発掘レーベルとして知られるNumeroのコンピレーションアルバム「Good, God! Born Again Funk」に、そのうちの一曲が収められ、これが大きな話題となり、ついにこのアルバムが再発へと至った。

 地域も時代も越えて、火がつくようにこのレコードが求められたのはは、当然ながらその音楽の質の高さによる。まずはバレット牧師の歌が本当にうまい。ファンキーでシャウトに力がある。メロウな歌い方もできる。また数曲で聞かれる女性ヴォーカルも彼に負けずファンキー。

 だがこのアルバムが広いポピュラリティを獲得するのは、その音楽が極めて洗練されているからではないか。それはフィル・アップチャーチなどプロのミュージシャンが参加しているということもあろう。ただそれ以上に言えるのは、それぞれの曲がきちんとした構成をもって作られているため、完成された楽曲として聞けるということが大きい。

 タイトル曲Like A Shipのベースラインのなめらかさ、鈴を鳴らしているかのようなリズムセクション、心地良いグルーヴ感に聖歌隊のコーラスが重ねられ、その上に、牧師のソウルフルな歌声が聞こえてくる。

 あるいは2曲目Wondefulや5曲目Nobody Knows冒頭のダニー・ハサウェイを彷彿とさせる軽やかなピアノの旋律。特にWonderfulは歌い方もダニーを彷彿とさせる。70年初頭のまさにニューソウルに雰囲気をたたえ、コーラスや「ハレルヤ」の掛け声がなければ、ゴスペルだということを忘れてしまうようなスイートなソウルである。

 かと思うと、1,2,1,2,3のかけ声で始まる4曲目のEver Sinceは、アグレッシブなゴスペルファンクで、コーラスもアップテンポ、バレット牧師もジェームス・ブラウンのようである(かけ声で発する単語は違うが...)。

 こうした当時のソウル、ファンクの最新の形式がしっかりとそれぞれの曲に生かされている。それは当時の若者の心を捉えるという意味もあっただろう。だが何よりも、そのソウル、ファンクの音楽形式がきちんと曲にはめ込まれてなければ、これらの楽曲が普遍性をたたえることはなかっただろう。

 単なる情熱や宗教心ではなく、あくまでも音楽として楽しめること、そのために楽曲自体がソウルやファンクの形式に沿っていること、それがあるからこそ、牧師のスピリチュアリティが、今、現在へと伝わってくるのだろう。音楽は楽しい、そんな単純な喜びを素直に感じられる名盤である。

coming_from_reality.jpg アメリカの音楽サイトWolfgang's VaultからのメールでRodriguezがアメリカで今も元気に歌っていることを知った。とはいえプロというわけではないらしい。それを知ったのは、実に驚きなのだが、Rodriguezを追ったドキュメンタリー映画がアメリカで公開され、彼のことがさまざまなホームページで語られていたからである。映画のタイトルはSearching For Sugar Man。Sugar Manは、1970年に発表されたファーストアルバムの1曲目。全く売れないまま、その後ほとんど消息不明になっていたRodriguezの40年も前のアルバムが、南アフリカでは、抵抗の象徴として大きな反響をよび、それを知った制作者が、アメリカでSugar ManことRodriguezを探すという映画らしい('Searching for Sugar Man' Spotlights the Musician Rodriguez - NYTimes.com)。

 Rodriguezを初めて聴いたのは、2009年の仏Téléramaのpodcast音楽番組Hors pistesだった。発売当時も話題にならず消えてしまったミュージシャンの2枚のアルバムが、どういうわけかCDで再発になった。番組ではセカンド・アルバムからIt started Out So Niceという曲がかかっていた。かすかに枯れた声とアコースティックギターによる弾き語りの美しい曲。そして控えめにストリングスがアレンジされている。すぐにAmazon.frで2枚のアルバムを注文した。

 ファーストのほうが若干サイケデリックっぽいだろうか。セカンドはぐっと質素で、飾り気のない優しい曲が多い。ポエトリー・リーディングのような曲もある。基本はアコースティックギターと控えめなストリングス。そして朴訥とした声。ジョン・ケールにも似たロマンティックな曲調だが、決して歌い込んだりはしない。あくまでも控えめに語るだけだ。Silver Wordsで歌われている「ああ、あなたに会って、ぼくがどんなに変わったか、わかってもらえたら」というひかえめな希望がこのアルバムを象徴しているように思う。決して声高ではない、ただいつかあなたに聴いてもらえたなら、そんな控えめな希望が、何十年たって、実際に本当になった。

 とりわけ印象的なのはCauseという曲。いきなり「クリスマスの2週間前にオレは仕事を失った」と歌い出される。不運と自虐的ユーモアという意味では、こちらの曲のほうがSugar Manより、Rodriguezにふさわしいかもしれない。ヒットや反響という意味では、きわめて不遇のキャリアだったかもしれない。しかしWolfgang's Vaultのヴィデオで歌っているつい最近のRodriguezの姿は、本当に楽しそうなのだ。ギターを肩からかけ、かるく体をゆすりながら、歌う姿は本当に素敵だ。決してヒットはしないだろう。でも良い音楽は少しずつでもずっと聴き継がれてゆく。いつか彼の3枚目のアルバムを聴きたい。

newyork.jpg アル・クーパーは、ディランのアルバム録音に参加したり、バンド活動を繰り広げるなかで注目を集め、ソロ・アルバムも何枚も発表した。しかし根本的にはセッションバンドのキーボード奏者であると思う。よく言われることだが、彼のヴォーカルは、声量があるわけではないし、細やかなニュアンスに欠ける。

 それでも彼のアルバムの魅力が衰えることがないのは、次々とあふれてくるアイデアを、アルバムであますことなく表現しえたからであろう。ハードロック調の曲もあれば、都会的なバラードもある。脈絡なぞあまり考えずに、頭の中に浮かんだものをとにかく音にしてみるという、考えてみれば贅沢な、しかしそれだけ高い制作意欲につらぬかれたアルバムである。

 代表作として、そして日本で人気があったのは『赤心の歌』であり、自分も一番最初に購入したアルバムである。しかしNew York City (You're a woman)は、アル・クーパーの強い思い入れを感じる好盤である。プレイヤーとしての自信にあふれ、さらにプロデュース、アレンジも手がけ、一枚の作品へとアーティストの発想が結実している。

 特に表題作の1曲目。ピアノと語りかけのヴォーカルから始まるイントロが素晴らしい。アル・クーパーのニューヨークによせる郷愁を歌ってはいるが、中盤からの力強さこそこの曲の魅力だ。この曲があるだけでこのアルバムは名盤と言える。そして切れ目なく2曲目へと。こうした着想や、ソウルロックのテイストがTodd Rundgrenを確かに思い起こさせる。

 作曲能力の高さ、オリジナリティという意味ではインパクトに欠けるかもしれない。Elton Johnのカバーもあるが、これも楽曲がもともと良いから聞けるという点は否めない。それでも一人のミュージシャンが創意工夫をこらしてひとつの作品を創造できたということ、その音楽を創造する高い志に深い敬意を抱く。

live_at_fillmore_west.jpg 年末にめずらしくテレビをつけていたら、いきなりピーター・バラカンがCMに出ていて驚いた。自宅で撮られたInter-FMのためのCMだった。それでバラカン・モーニングを知って、ラジオサーバーを購入し、以来ほぼ全番組を聞いている。

 今日3月25日は、アレサ・フランクリンの誕生日で(自分の父親も今日が誕生日だった・・・)、それでかかったフィルモアのライブがあまりにも素晴らしかったので、思わずレコード屋に直行してしまった。購入したのはレガシーエディション。ソウルにはまったく不勉強な自分だが、このアルバムは万人を受け入れてくれる、度量の広いアルバムであること、そしてだれであっても音楽好きならば、間違いなく感動する素晴らしい音楽が詰まっていることはわかる。

 ということでまだ全然聞き込んでいないのだが、このCD2がいい!Call meからMixed-up Girlの2曲がいい。心をふるわせ、体が思わずスイングする音楽の力を十二分に感じることができる。でもそのあともたたみかけるように素晴らしいパフォーマンスが続く。

 いったい歌とは何だろう。それは素朴な言い方だが、音楽を聞くことで、喜んだり、泣けてきたり、感情の深み、感情が一気に振幅することを体験するのだと思う。普段の生活の中で忘れていた、感動ーちょっとキザにいえば、魂の震えーそれを感じられるのが音楽の素晴らしさだ。アレサのヴォーカルを聞いていると、自分の感情がだんだん深く、繊細になっていく気がする。鉛のようになってしまった感覚が、彼女の声を聞いているうちに、だんだん溶けていって、音楽とひとつになるような気がする。自分がこんなに感情をあらわにすることなんていったいいつ以来だろうか、そんな思いにさせてくれるほど、アレサの声は心に沁み入ってくる。

 人間はこんなにも感動できるのか・・・

booker_t_priscilla.jpg 二人の親密な愛をアルバムにしてしまう。二人の永遠の愛の刻印としてこのアルバムが生まれた。1曲目からしてThe wedding songである。ジャケットを見れば一目瞭然、誰も間に入ることもできない。For Priscillaはきわめて甘いラブソングだ。もはや詩などというものではない。「死ぬまで一緒だよ。流れる川のようにずっと一緒に愛して、笑って、涙しよう」と、普通ならば、「もう二人の勝手」となるところだ。

 だが、このアルバムはよく言われることだが、ソウルやゴスペルとスワンプロックの調和をはかったきわめて野心的なアルバムでもある。ジョーンズのやや甘くせつない色恋にそまったヴォーカルに比べて、プリシラのヴォーカルは野太く、黒人の文化であったゴスペル、ソウルに激しくせまろうとする。ここにはひとつの音楽的な冒険があると思う。ルーツへと回帰しながらも、そこに魂と体を投げ込むことによって、決して過去をなぞるのではなく、今を確認しようとする、音楽的な創造性があるのだ。

 71年。ヴァン・モリソンも西海岸で音楽活動を続け、『テュペロ・ハニー』を出す。このアルバムもひとつの「ラブ・アルバム」で、当時の恋人を「きみは太陽だ」と歌い続ける。アイルランドの荒涼とした風景から、西海岸の明るさのなかで、きわめてプライベートなアルバムを制作していたのだが、でもこのアルバムも私日記ではない。モリソンはここでも新しい音、新しい表現を求めていたのだ。ずいぶん聴きやすいアルバムとはいえ、決して音楽的に妥協しているわけではない。

 モリソンとのもう一つの共通点は、宗教である。魂の奥底から歌を歌うとは、日常をはるかにこえて、自分の存在を弱小のものとし、弱小ゆえに、祈りを歌にし、神に聴かせる。それはひとつのナルシスティックな高揚感に過ぎない。だが歌そのものは人間のものだ。決して神から与えられたものではない。その歌をうたっている肉体をもった歌手がいる。私たちはその肉体から絞り出される声そのものに感動を覚える。そうでなければ、歌は宗教の道具となってしまうだろう。そこに歌い手と聞き手の深いつながりが生まれる根拠があるのだ。

 愛から祈りへ。深みをたたえながら、私的でありながら、美しい歌がしっかりと聞き手に届けられる。深い音楽への理解に下支えされた表現者の愛を感じる名盤だ。

Faces, Long Player (1971)

long_player.jpg 深夜にすっかり酔っぱらっているのに、まだまだウイスキーを飲みたいときに聞きたいもっとも最高のバンドといえば、もうこのフェイシズ以外には考えられない。なぜロニー・レインのしぶい曲をここまでロッドが歌い込めるのか。その一点だけでロッドは天才ヴォーカリストだ。と同時に、不器用な連中のなかにあって、ロッドだけがスター街道を歩めたのはいったいなぜなんだろうという疑問もわく。バンドの仲が悪かろうと、ぐだぐだだろうと、こうしてレコードに刻まれた音は、このバンドが最高に「イカしたイカれたバンド」だとわかる。

 一曲目のひずんではじけたギターのリフがまず最高。ロッドの疾走感あふれるヴォーカルにおもわずこちらもシャウトしたくなるご機嫌な一曲。さらにファンキーなオルガンとスライドギターが重なり、聞き所が多い。そして二曲目は、Ronnie Laneの名曲Tell Everyone。この曲のTo wake up with you / Makes my morning so brightという何の変哲もない歌詞がなぜだかLaneの心持ちを表している気がしてとっても好きだ。三曲目はロッドの泣き泣きのヴォーカルに思わずしんみりしてしまう佳曲。四曲目はLaneのヴォーカルによる家畜の匂いただようほのぼのカントリーソングだ。

 B面の一曲目も適度にひずんだギターから始まり、そこにピアノが重なってくる始まり方がまたまたかっこいい。しかもサビの部分のロッドのシャウトの濃密感がたまらない。その勢いがそのままピアノやブラスバンドへ流れこむ展開に実に圧倒される。そして最後はRonnie Woodのボトルネックギターに聞き惚れながら、アルバムが終わり、完全にボトルが空になる。

 ライブが二曲収められていたり、アルバムのトータル感などあっさり無視しているかのように、雑多な曲が並んでいるが、でも楽器をもたせたら最高の連中がそろい、しかもそこにロッドがヴォーカルをとるわけだから、これはもう無敵です。

David Bowie, Hunky Dory (1971)

hunky_dory.jpg「芸術のための芸術」といった世界となんの関わりももたないような、自律した芸術作品という考えに立ってものを考えることは、最近はあまりないが、しかし、ロックには、幻覚作用によって、この世界を消し去ってしまう強い魅力があることは確かである。現実を忘れさせるような、強いカリスマ性をもったロック・スターが、60年代から70年の初頭にかけて何人も登場した。その中でもデヴィッド・ボウイは審美性が高く、「地球に墜ちてきた男」という形容が実にふさわしいアーティストだ。

 初めて聞いたボウイのアルバムは、『スケアリー・モンスターズ』だった。Ashes to ashesの壊れやすいヴォーカルが、自分にとっては以後好きなロックを見分けるひとつのレフェランスになった気がする。たとえばOrange Juiceのエドウィン・コリンズのヴォーカルなど、自分にとっては「高音裏返り男性ヴォイス」の代表だった。

『スケアリー・モンスターズ』をエア・チェックしたFM番組は、しかし一曲目にボウイの代表曲として「Starman」をかけた。そのときの、文字通り鳥肌がたった瞬間は今でも覚えている。アコースティックギターとささやくような軽くかすれたヴォーカルから、サビのスターマンへと一気にもりあがる曲の展開は、けっして大げさではなく、しかしドラマティックだった。もちろんジギー・スターダストの高揚感にくらべれば地味かもしれない。だが、音をどれだけ削りとったとしても、聴く者を幻惑するロックの魅力をスターマンという曲はそなえている。わずか数分の間に、圧倒的な盛り上がりへと至る展開は、ボウイの当時の曲のエッセンスといってもいいのではないだろうか。

『ジギー・スターダスト』という時代を象徴するアルバムと聞き比べると、『ハンキー・ドリー』はその予兆をこめた一枚ともいえる。しかしけっしてその前段階にあるアルバムではない。このアルバムには、「ブリティッシュ・ロック」ならではのメロディセンスがあふれた名曲がいくつもおさまっている。まず一曲目のChanges。サビの「チェ、チェ、チェ、チェンジ〜ズ」のところで、開始そうそう胸が締め付けられる。二曲目はピアノのイギリスっぽい旋律に、ボウイのヴォーカルがかさなり、またまた胸がどきどき。Oh! You Pretty Thingsの歌詞の部分、たそがれた雰囲気を醸し出しながらも、力強く歌われる展開が実にロマンチックで、イギリスのロックにしかありえない甘美なメロディだ。4曲目の「火星の生活」のイントロも甘美でありながらも、瑞々しく、ダイナミックで、ストリングスもはいる。それなのに大げさではないのは、曲のコンセプトがしっかりしているからだろう。

 今回聴き直して思ったのは、本当にイギリスでしか出せない音がここにはつまっているということ。6曲目Quicksandの展開もそうだ。ヴォーカルにアコースティックギター、ピアノの伴奏、そしてやはり一気にさびへといたる展開は、まさにイギリスのもつ叙情性の最高の表現だと思う(CDにおさめられているデモトラックは実にかっこいい)。そうボウイはライブで「Thank'you sincerely」と言ってしまうようなイギリス人なのだ。

 最初に、この世界を消し去る魔力がこのアルバムにあると書いた。だが同時に、このアルバムを聞いたあとには、世界の見方が変わってしまう。それは単に耽美やアングラという趣味の問題ではない。そうではなくて、ボウイの生き方自体がこちらを挑発するのだ。60年代後半から70年代を疾走したボウイのようにだれも生きることはできない。生のエネルギーをあれほどまでに激しく燃焼させることはだれにもできない。だから、1980年にLodgerのジャケットのように死ぬべきロック・スターは、実はボウイだったのではないか。

the_ballad_of_todd_rundgren.jpg 今でもあるのかわからないが、学生時代にもっとも信用のおけるレコード屋のひとつは池袋パルコの山野楽器だった。ここは銀座の山野楽器とはまったく違い、いつもぼさぼさあたまのあいその悪いお兄さんがひとりで切り盛りしていた(あるいはある売り場の一画だけだったのかも知れない)。しかし、仕入れなどはそのお兄さんが自らしていたということで(これも聞いただけだが)、とにかく品揃えが半端ではなかった。というか、山野に仕入れされる新譜をみて、ロックの勉強をしたといってもよい。とにかくそこに置かれるものだったら買って間違いはない。店の壁にはいろんなレコードのジャケが飾られ、お兄さんのロック趣味がもろに反映された店作りだった。そして、当時はそんなレコード屋のお知らせこそが重要な情報源だった。

 中でもTodd Rundgrenのライノレーベルからの再発は、ちょっとした大事件であった。とくにファースト、セカンドは当時ほとんど手にはいることはなく、そのジャケットセンスと名曲Be nice to meがはいったセカンドはかなりの値がついていた。それがすべて再発である。

 このアルバムは、Toddのメロディセンスがいかんなく発揮されたアルバムであるが、何よりも手触り感のする音の作りが素晴らしい。1曲目はドリーミィな雰囲気をただよわせた、Toddらしいポップな曲。そして2曲目はチャイムの音が美しい、バラード。いかにもToddらしい甘美でメランコリックな名曲。5曲目はワルツのリズムにのせた、わずか2分半の小曲だが、ギターの音色のせつなさが心に響く名曲。そしてアコースティックギターから始まり、Toddのヴォーカルが重なるうちに、曲が壮大に展開する6曲目は、このアルバムの一番の盛り上がりどころである。とくにThis is the ending of my songの歌詞にぐっとくる。

 Toddのアルバムのなかでこのアルバムが人気があるのも、どの曲もメロディがまとまっていて、他のアルバムにある変調や、あるいはとっぴょうしもなくヘヴィーな曲がほとんどはいっていないせいだろう。その分Toddがかなりの嗜好をみせるハードロック感はここでは抑えられ、こじんまりした感じも受けるが、それほどソウルでもなく、もちろんフォークでもなく、エンジニアとして凝りに凝ったというほどでもない・・・。それらのテイストがほどよく織り込まれ、そのあたりのアレンジの品のよさが、Toddの職人芸のなせるわざなのだと思う。ここまでのポップアルバムをつくるのは並大抵のことではないだろう。そしてここにおさめられた曲は決して古くならない、時代をこえたエヴァー・グリーンな輝きがある。

 Be nice to meはやっぱり美しい。曲の後半、nice to meの「ミ〜」の高音のところがすっとひきのばされ、ピアノと鐘の音がかさなるところなど、何度聞いても心をうたれる。

 なんだか凡庸な比喩ばかりで、「Toddらしい」という言い方に終始してしまった・・・が、とにかく時代の流れとはまったく関係のないところに存在する、ロックアルバムの古典だということは間違いないだろう。

gonna_take_a_miracle.jpg R&Bのクラシックを歌ったこのアルバムが好きな理由は、はっきりしている。オリジナルよりも、Laura Nyroが歌っているからここまで思い入れができるということにつきている。オリジナルを聞いてもここまで感動することがないのは、それはオリジナルの楽曲がどんなに素晴らしくても、ある形式、約束事にのっとっている感じがしてしまうからだ。もちろん、それは僕が聞き所を心得ていないということなのだが。

 では、Laura Nyroのこのアルバムの何を聴いているのか。それは、黒人音楽へのオマージュではない。むしろ、歌いたい曲を、歌いたい仲間と歌っている喜び、その喜びから発する、曲自体の生命感だ。どんなに素晴らしい曲であっても、歌い継がれなければ、単なるクラシックになってしまう。愛情を持って歌い継ぐ人間がいてこそ、曲に新しい命が吹き込まれる。

 その歌い手としてこのLaura Nyroほど、素晴らしい白人歌手はいない。たとえば3曲目のメドレー、バックヴォーカルとのかけあいのはつらつさ、後半の曲へつながるところの躍動感、5分弱でありながら、どんどん高揚してゆく流れが素晴らしい。それと対照的なのが、4曲目のDesiree。エコーのかかったヴォーカルの静謐さは、死の直前まで変わらなかったことを改めて再認識する。

 このアルバムも他の好きなアルバムと同じように、白人/黒人というカテゴリーでは決して分けられない。そしてどんな定番の曲であっても、ぬくもりのあるハミングを聴かせ、豊かな声量でソウルフルに歌いあげ、変幻自在に色づけされている。音楽の歴史的・社会的背景に、歌い手の歴史的・社会的背景には決して還元できない、パフォーマンスの現在性(今、ここで、歌が歌われているという事実そのものがもつ重みのようなもの)こそに惹かれるのだ。

 その瞬間を収めたこのアルバムは本当に希有な幸福感を伝えてくれるアルバムだと思う。他のアルバムも素晴らしいけれど、どれか一枚を選べと言われれば、このカヴァー集だろうか・・・

earth_song_ocean_song.jpg 1970年初頭のイギリスのフォークムーブメントを最も良く表現した一枚であろう。重厚なベースの音、スコティッシュな伝統の響き、アコースティックなギターの旋律、そして控えめでありながら全体の空気を作り上げているストリングスなど、シンガーの、こうしたアルバムを創りたいという意図がひしひしと伝わってくる力作である。他人の曲だけを歌っていても、SSWのドノヴァンや、ニック・ドレイクなどに決してひけをとらない、時代を代表するアルバムである。

 しかし、全体が同じ色調で染められているとはいえ、内容は単調ではない。ホプキンのヴォーカルは、瑞々しいが、決して少女っぽい歌い方ではない。むしろ堂々と声を響かせ、凛々しい歌声を聞かせてくれる。There's Got To Be Moreのようにノリがよく、しかも力強い抑揚を聞かせてくれる曲、Streets of Londonのようなフォークのミニマルな美しさが際立つ曲、さらにはWater, Paper and Clayは、単純なメロディが何度も打ち寄せるトラッドっぽい曲であるが、次第に、どんどん熱く荘厳になっていく展開は、決してフォークの一言ではすませられない、豊かな情感を表現している。

 このアルバムでのメリー・ホプキンは、まさに日本盤タイトル『大地の歌』にふさわしく、しっかり大地を踏みしめ、自然の息吹を感じながら、生命があふれる喜びを歌っているように感じる。それはジャケットの美しい写真のせいもあるだろう。表のEarth Song、裏のOcean Song、それぞれにふさわしい情景の写真が使われている。写真におさまる19歳のホプキンには、イギリスの過去と今が見事に結晶化している。

high_winds_white_sky.jpg ながらく再発を待っていたカナダのシンガーソングライターBruce Cockburnのセカンド・アルバムです。サードもよいけれども、初めて聞いたのがこちら『雪の世界』だった。弾き語りの質素なアルバムであるが、聞き込むとかなり曲ごとに雰囲気が違うことがわかる。比較的ピッキングが強くて、Stephen Stillsのギターワークを思わせもするが、このアルバムはずっと内省的だ。

 1曲目はタイトルにブルースとついているが、ギターの音色はずっと軽快で、あざやかなコード進行が楽しめる。朝起きたら外は一面の雪景色、まさにジャケットの写真通りの世界が1曲目から描かれる。2曲目もずっとひかえめなギターとヴォーカルだけで作られていて簡素な感じだが、それでも、ギターの緩急をつけた展開が実はダイナミックな曲だ。

 また曲調もヴァラエティに富んでいる。4曲目はカントリー・フォークの懐かしい雰囲気をたたえた曲。かとおもうと5曲目はピアノがはいり、6曲目はブリティッシュフォークの憂いをたたえ、8曲目はブリティッシュトラッドの香りがする。

 このように様々なテクニックを随所にちりばめながらも、決してそれを全面に出さず、音を織り込んでいるところがこのアルバムの素晴らしいところである。

 曲がずば抜けてよいわけではないし、ボーカルも朴訥として、けっしてうまいとは言えない。アルバムのどこかに盛り上がりどころがあるわけでもない。CDで聞いているとB面の1曲めがどこだか見当もつかない。それほど単色の世界なのだ。しかし、このように控えめでありながら、聞けば聞くほど、1曲、1曲が個性を放ち始めるところが、このアルバムが名盤たるゆえんではないだろうか。

 ところでこのBruce CockburnやArtie Traum(名盤Double back!)といったシンガーソングライターは、その後いわゆるギターの教則本といった世界に入っていく。それはそれで彼らのギターテクニックが卓越しているという証拠ではあるのだが、もはやアルバム1枚でひとつの世界を創りだすだけの余力は残っていないのだろうか。そこが少々寂しいところである。ジャケットもそうで、近年のアルバムはなんだかヘアーバンドが似合いそうなふぜいで、それじゃあ南こうせつだと少し悲しくなったりもする。

The Who, Who's Next (1971)

whos_next.jpg The Whoのディスコグラフィーをみていて驚くのは、このWho's Nextがわずか5作目だということだ。わずか5作にして、ビートバンドからはるかに遠い地点にまで到達してしまった。25、26歳の若者たちがすでにブリティッシュ・ロックの金字塔を打ち立ててしまった。

 ロジャー・ダルトリーの一本調子の「がなり唱法」は正直苦手で、ピート・タウンゼントのソロ・アルバムの方にむしろ情感がわくのだが、このアルバムに限っては、アルバムのトータル性という点で、ほとんど気にならない。ヴォーカルも曲のうねりの中に見事に調和している。ピートの素晴らしいギター奏法、キースのドラムワークの独創性(一人ドラムの天才を選べと言われれば間違いなく彼を選ぶであろう)、そして控えめながらも曲を下支えするジョンのベース、どのメンバーが入れ替わっても、もはやこのような作品は不可能であると言えるほど、4人のパフォーマンスがしっかりと結ばれている。

 だから、どの曲も展開が頻繁で、ドラマチックであっても、決して大げさにはならない。ハードロックの頂点にたつレッド・ツェッペリンの音楽の美学がその形式性にあるのにたいして、The Whoの音楽は、4人の力量が渾然一体となったところからうまれてくる圧倒的な力のようなものにその魅力がある。だから、ツェッペリンのライブでは、ソロの聞かせどころがあり、それが時に冗長な感じが否めないのにたいして、The Whoにはそういったソロが際立つということがない。いかに素敵なパフォーマーたちであろうと、実は他のメンバーとの緊密な関係の上に成り立っているのだ。それがThe Whoという「バンド」の「バンド」たるゆえんだ。

 アルバムはシンセサイザーの人工音ではじまる。それが空間をゆったりとめぐる。そこにピアノ、そしてキースのドラムが重ねられる。この余裕をもった展開の中、ロジャーの正統的なヴォーカルが始まる。この始まりだけをとってみても、音の絡まりのスリリングさが伝わってくる。2曲目でほほえましいのは、クラップ音だ。こうした小細工も実はThe Whoの魅力だったりする。そしてA面の最後の曲The song is overには、小尾隆さんが指摘しているように、Pure and easy(Odds and Sods収録)からのフレーズが織り込まれている。これはピート・タウンゼントのファーストWho came firstの一曲目にもそのデモバージョンが収められている。実に美しい曲だ。

 めまぐるしい展開があっても、それが緊張感を保って曲として成立しているのは、「余裕」があるからである。それは「風格」といってもいいだろう。ロックが若者の好むやかましい音楽ではなく、楽曲としても成熟し、作品として十分聞かれ続けるにたる、そんな大人のロックが、The Whoによって始まった。それがイギリスの1971年だ。