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yuming_singles.jpg もはやおぼろげな記憶しか残っていないのだが、ユーミンが、自分の曲を校歌にした瀬戸内海の小学校を訪ねる番組を見たことがあった。小学生たちと交流をしたユーミンの目には涙があふれていた。自分の曲を大切に歌ってくれる子どもたちと、その子どもたちが暮らす海の風景に囲まれて、自然のなかで自分の歌が歌い継がれてゆくことの喜びゆえの涙だったのではないだろうか。

 校歌になったのは「瞳を閉じて」。「遠いところへいった友だちに 潮騒の音がもう一度届くように 今 海に流そう」。今は一緒にいる小学生たちも大きくなればやがて島を離れていくだろう。しかしどれだけ遠くに離れても、この育った海の潮騒のことをいつまでも覚えていてくれるように、そしてどれだけ遠くに離れていても、ずっと友だちのままだということを伝えるために、ガラスのびんを海に流す。自分の書いた詞が、子どもたちの心のよりどころになっていく。それを実感してユーミンは泣いたのではなかったか。

 荒井由実時代の7枚のシングル、計14曲を集めたこのCDは、実に贅沢なCDだ。A面、B面関係なく、どの曲もおもわず口ずさめる親しみさと、おしゃれでありつつも「翳り」をふと感じる陰影に富んでいる。デビューシングルの「返事はいらない」のピアノ、ギターのイントロから「この手紙が届くころには」という歌いだしのメロディに驚く。ロックというにはあまりに素朴で、フォークというにはあまりに洗練されている。

 そして自分がはじめて聞いたユーミンの曲「あの日に帰りたい」。その後松任谷由実という名前を見つけて、あれっと思ったことを覚えているので、おそらく荒井由実をオン・タイムで聞いていたのだろう。もっともハイファイセットのほうがなじみがあったのだが。

 ところでこのCDの曲解説はだれが書いたがクレジットがないのだが、簡素な説明でほぼ曲の魅力が言い尽くされている。たとえば先ほどの「瞳を閉じて」については、「海をテーマにした数々の作品を創っているユーミンだが、すがすがしさという点ではこの曲が秀でている」。うん、その通り。

 そしてシングルを集めているということで、バージョン違いが何曲もありマニアの心を満たしてくれるCDでもある。

Sonic Youth, Sister (1987)

sister.jpg 中三のときに、いつも夕方聞いていたFM愛知の番組でパーソナリティが「今日は、今までとまったく違う音楽をおかけします」といって紹介したのが、ラフ・トレードの初期リリース5枚だった。そのほとんどを買ったのだが、そこにはポップ・グループ、キャバレー・ヴォルテールという名前が並び、5枚目は「クリア・カット」というオムニバスで、ジョゼフ・K、スクリッティ・ポリティ、ザ・フォール、オレンジ・ジュースそして、ロバート・ワイアットというごった煮状態の曲がおさめられていた。パンク以後、「オルターネイティブミュージック」のイギリスでの誕生である。ニューヨーク・パンクは詳しくないので、ポスト・パンクもふくめてきちんとしたことが書けないのだが、ノイズとはその後White Houseなどの殺戮的な実験音楽、あるいはDAFのようなインダストリアル・ロック(その後のノイバウテン)、そして日本の裸のラリーズへと自分のなかでは広がっていった。しかしこうした名前を並べただけで、ノイズといってもそれは音の表面的な印象を指すに過ぎないということは明らかだろう。ラリーズをノイズ・ロックと言ってしまっては、ラリーズの夜の闇と夜明けの曙光をまったく看過してしまうことになる。

 Sonic Youthは今まで素通りしてきたバンドである。先日Télérama musiqueで72年生まれの作家が自分のロック経歴を語るインタビューがあり、そこでこのSisterに収められているSchizophreniaを初めて聴いて、さっそくアルバムを980円(at レコファン)で購入。インディ時代の最後のアルバムとのことである。発表されたのはもう20年も前のことだが、まったく時代の流れに巻き込まれてしまうことなく、今でも一枚の完成度の高いアルバムとして聞くことができる作品だ。

 オルタナバンドによくある、衝動の垂れ流しではまったくない。とはいえ、ヘヴィメタバンドのように計算高いところもない。形式へ上昇しようとする美しさとそれを破綻へと至らしめる衝動のアンバランスさと緊張関係が素晴らしい。ノイズ・ギターの一音が、ハウリングをともなって消えてゆくとともに次の一音のために弦が鳴らされる。Dinosaur JRのギターが絶え間ないメロディの叙情性をたたえているとするならば、Sonic Youthのギターは叙情性を切り刻んでしまうカッティングギターだ。

 Sonic Youthは、Killing JokeやHappy Birthdayなどのグランジという言葉が生まれる前のノイズ・ロックの文脈に位置づけられるように思う。ひるがえってDinosaurは、これは疑うべくなくニール・ヤングのフォーク・ロックの文脈だ。前者がニューヨークのハコでセッションを繰り返しているイメージなら、後者は自分の部屋にギターとアンプをもちこんで、ヘッドホンをつけてベットの上でギターを弾きまくっているイメージだ。

 繰り返しになってしまうが、ノイズ・ロックはジャンルではない。もしそれをジャンルとするならば、White Houseのようなもはや曲や音楽とはいえない「雑音の塊」しか扱えないだろう。ノイズ・ロックはあくまでも技法であって、その技法の先に音楽が現れる。よく聴いてみると、Sonic YouthもDinosaurも、叫び、わめくようなヴォーカルは驚くほど少ない。叫ばずとも、わめかずとも、その衝動を伝える音楽を創作することはできる。この創作への意識の高さが、Sonic Youthを現在でも最高のロックバンドのひとつにしているのであり、エレクトリックという電気で生まれる音をどう音楽にするのか、そのロックの課題にジミ・ヘン以後最も誠実に答えを出したのがこのバンドではないか。聞くに耐えない音楽と、何度もターン・テーブルをまわしてしまう音楽の境目にあるこのバンドの音楽はまさに中毒になる魅力をたたえている。