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greetings_from_asbury_park_nj.jpg 学生時代に、友人のお姉さんに「会社でもらったから」とチケットをいただき、友人と二人で東京ドームにライブを観に行った。ネットで調べたら1988年のヒューマン・ライツというイベントだった。多くのミュージシャンが出てきたが、もう誰一人覚えていない。ただトリがBruce Springsteenだったことだけは覚えている。2曲目のBorn in the USAに辟易して会場を出てしまったからだ。

 当時の自分にとっては拳をあげて聴衆をあおる(ようにみえた)コンサートはとてもロックには思えなかった。最初にSpringsteenを聞いたのは1980年のThe River。2枚組で曲がたくさん入っているだけでお得な気分だった。友人に借りてカセットテープにダビングしたのだと思うが、この時はアルバムタイトル曲の翳りのあるメロディなどがとても好きだったのを覚えている。

 その後Springsteenは「アメリカの権化」のように思えて聞く気にはなれなかったが、ある先輩から「ファーストはよい」と聞かされていた。以来20年余。先日のLazy SundayでFor youがかかっていて、これが実によい曲で、ついにユニオンで800円で購入。

 グレアム・パーカーにも似た前のめりの歌い方、言葉数の多い歌詞、サウスサイド・ジョニーと共通する軽快でありながらも骨太な演奏、サックスとヴォーカルのからみ、すべてがつぼにはまる。

 歌詞を読むと喧噪や怒りややりきれなさに満ちているのに、演奏は爽快ですらある。決して足を止めることなく、町を駆け抜けながら風景を切り取っていくような描写には、様々な人間、様々なモノがあふれかえっている。だがそれらは心に映る風景であり、だからどんなに奔放に思えても、内省的な翳りがアルバムを染めている。

「光で目もくらみ」、「成長するってこと」、「82番通りにこのバスは停るかい?」、「都会で聖者になるのはたいへんだ」ーこれら曲のタイトルも、そして邦題のつけ方も詩的で素敵だ。

 これがデビュー作。「荒削り、地味」という評価も聞かれるが、聞いてみればわかる通り、「ハートがひりひりする」ティーン・ロックとしてこれほど完成度の高いアルバムもないだろう。もちろん決して完成なんかしない、大人にもならない、未熟で愚直なまま、生き続けたい、そんな叫びに満ちたアルバムである。

Isley Brothers, 3+3 (1973)

3+3.jpg アルバムが一斉に再発されて、「局所的」に盛り上がりを見せているIsley Brothers。ピーター・バラカンの一押しはこの「3+3」とのこと。前作までのフォーク・ロックのアプローチも一段落し、いよいよメロウなグルーヴ感覚を活かしながら、そこにファンクの骨太なリズム・セクションが加わった記念碑的なアルバムである。

 しかしこのメロウ感は、たとえば彼女を部屋によんでこのアルバムをかけてしまったら、絶対に失敗するメロウ感である。それは良い意味での過剰だということ。どう考えてもこのアルバムはBGMには使えない。クリスマス・イヴにかけるには完全にミスマッチなアルバムだ。たとえば2曲目のDon't let me be lonely tonightとか、James Taylerの曲だけど、甘すぎて聞いているこちらが狂ってしまいそう。解釈が良すぎて音楽に聞き惚れてしまうし、だいたいこのタイトルを日常的にはささやけないでしょう。そうした日常から乖離したところに音楽の固有の世界を作ってしまうIsleyのクオリティに感服...

 バラカンが勧めるだけあってどの曲も完成度が高い。3曲目、If you were thereなど「キラキラ」していて、心も体もうきうきになれる名曲(というかこれ、シュガーベイブがコピーしていた)。6曲目もリズム・セクションのはつらつとした進行に引き込まれる。そしてこのアルバムには、Summer Breezeが入っているし。この暑苦しいバンド(by 「国境」のマスター)が「夏の清涼」を歌ってしまうのだから、これは脱帽もの。

 一番好きなのは4曲目You walk your wayか。最初のハモンド・オルガンのせつなさがたまらなくいい。そしてヴォーカルの語尾の跳ね上がりがとてもセクシー。精神的に腰砕け状態になる至上の名曲。

abandoned_uncheonette.jpg 今から20年も前。トッド・ラングレンの再発の頃だったか、その話を友人にしたら「こんなアルバムもあるよ」と紹介してくれ、CDまで貸してくれたのが、Hall&Oatesの「War Babies」だった。そのままCDは返さずじまいで今も手元にある。このアルバムは、彼らのサードにあたり、ソウルな風味にロック色を入れたいと思った本人たちが、トッドにプロデュースを頼んで制作された。オーバー・プロデュースで有名なトッドだが、このアルバムもかなり激しいアレンジになっている。

 それに対してこのセカンドは、まだ本人たちの手探り感というか、もがき感が残っていて、甘酸っぱさをかきたてている。特に裏ジャケの二人の表情はやるせなさが漂っている。その後の哀愁を帯びてはいてもパンチの効いたロック調とは異なる、エルトン・ジョンに似た青春の青さを感じさせる内省的な音楽だ。1曲目のハーモニーの繊細さ、高音の美しさがこのアルバムの瑞々しさを伝えてくれる。アコースティックソウルの肌触りとしては、たとえば5曲目の、弾き語りからヴォーカルが重なるI'm just a kidの冒頭、そしてサビのハモリなどに十分感じられる。

 ちなみにこのアルバムにはBernard Purdieなど一流ミュージシャンが参加しているが、確かにアレンジが素晴らしい。2曲目のフックの効いたドラム(これはPurdieではないが)などセンスの良さが光る。

 ここには彼らの初期のヒット曲She's Goneが入っている。10ccのようなしっとりとした曲調から、親しみやすいサビに入り、そしてサックスの音色へと、とても聞きやすい構成だ。AORやディスコサウンドへ行く手前の、というかもうすぐそこにひかえているような音作りだが、たとえばはずかしい音色のギターの音にもならずあくまでアコースティック、機械音の打ち込みのようにならず、あくまでも肌ざわりを大切にした、手作りの音楽だ。

 名盤はこんなところに眠っている。

chronicles.jpg あやうくポップスに陥りそうなほど、円熟味をみせているサードアルバムである。デュエットが、互いに切り結ぶような緊張感を感じさせず、むしろ愛の姿としてよりそうような歌唱を聞かせている。しかしその甘さがとても心地よい。それは音楽の懐の深さによるのだろうか。

 Flyは聞きようによってはとても大仰だし、When two people are in loveは、ムード歌謡として片付けられなくもない。でもたとえばRings around the worldは、アメリカのルーツミュージックを思わせる、しみじみした曲だし、サビのプリシラの歌いっぷりがすがすがしい。二人の音楽を探す旅がここでも健在だと実感させてくれる名曲だ。おなじく5曲目のMendocinoはやっぱり甘いんだけれど、でもふたりのかけ合いが、至上の親密さを感じさせ、こちらをふくよかな空気でつつんでくれる。実にいい曲だ。特に後半のパートを受け継ぐBooker T.のヴォーカルがいい。Is you, only you/It's been a long waitのあくまで控えめな歌い方が実にいい。

 このアルバムには、それでも様々な音楽の咀嚼がある。Cherokee Riverは素直なルーツ・ミュージックであるし、Timeは、リタによる良質なアメリカン・ポップミュージックである。そして最後のWounded Kneeの重みのあるソウルミュージック。きわめて多彩な曲がおさめられたアルバムは、二人のプライベートなアルバムでありながら、時代そのものがもっていた音楽の追求を、しっかりとみせてくれる。

Kenny Rankin, Like a Seed (1973)

like_a_seed.jpg 長らく廃盤状態が続いていた『銀色の朝(シルヴァー・モーニング)』がようやく最近になって再発された。名盤との評価を受けてきたアルバムだが、実際に聴いてみると、それまでのフォーク、ソフト・ロックから、ストリングスをいかし、ワールドミュージックのテイストをもったAORへの過渡期にあるアルバムという印象で、アルバムとしての散漫さ、アレンジの過剰さをどうしても感じてしまった。それに対してこのLike a seedは1、2枚目にあった青さは多少影をひそめ、落ち着いたトータル感を大切にしたアルバムだと思う(「Comin'down」を除いては)。いろんなことを試してみようとしてなんだか力がはいっている『銀色の朝』よりも、こちらのほうがアルバムとしては完成度が高いと言えるのではないか。アレンジもあくまでひかえめであり、ケニー・ランキンの歌声が堪能できる。

 決して老けているわけではない。それでも初期のフォークの雰囲気からすれば、老成したといおうか、力ではなく、技術で聴かせるヴォーカルになっているように思える。たとえばSometimesやStringmanのような、ソフトな曲でも、たんにAOR風のムードを漂わせるだけではない。メロディはけっこう暗めで、内省的でさえある。またカリプソ風の楽器のアレンジも、むしろメランコリックな音をきかせている。この2曲に続くEarthheartはさらに憂いを帯びた曲だ。初期エルトン・ジョンのもっていた内省的なメランコリー感に通じるものがある。

 そしてケニー・ランキンの声の美しさの極致であるYou are my woman. Be my woman foreverとささやくその声はずっとこちらの心に響いてゆく。ラストのIf I should go to prayは、けっして大げさな曲でもない。それでもケニー・ランキンの最後のハミングが永遠に聴いていたいと思うほど美しく、荘厳さまで感じる曲だ。

 どのアルバムも決して悪くはない。それぞれジャズやボサノバなどテイストは異なるが、このヴォーカルは変わらない。それでも全曲を自分自身で手がけたからではないが、Like a Seedは、ランキンの音楽にたいする資質がバランス感覚という点でもっともよく表現されたアルバムではないだろうか。

there_goes_rhymin_simon.jpg Paul Simonのソロ作品は、ワールド・ミュージックの剽窃だなどとよく言われたせいか、自分の中でも、安易なミュージシャンというイメージがずっと残っていた。それはピーター・ガブリエルが、同じくワールド・ミュージックの文脈に依拠しながらも、それをスタジオ・ワークによって高度に再構築してみせたアルバムを出していただけに、Paul Simonのアルバムは、ろくに聞いたこともないのに、素人くさいものと思ってしまっていた。

 今回この実質ソロ2作目を初めて聞いてみて、Paul Simonの仕事の根幹には、良い意味でも悪い意味でも、「アメリカ」をどう歌い込むかという問いがあると感じた。そして、それらを飾るアレンジはまさに飾りでしかないと。

 1993年12月号の『レコード・コレクターズ』で高橋健太郎は次のように書いている。

「ただし音楽的にそのような要素を取り入れても(レゲエやゴスペルコーラスなど)、サイモンのアプローチにどこか醒めた距離感があり、ニューヨークのインテリが作り上げた文学的、あるいは映画的な作品であることを逸脱しない」
 つまりどのような他者の音楽に触れようと、結局出来上がった作品は、アメリカのポップ・エッセンスをセンスよく取り込んだものになっている。ゴスペルやカリプソがあったてもそれは、ゴスペル「風」、カリプソ「風」であって、趣味の範疇をでるものではない。そしてこのアルバムには、永遠に歌い継がれるだろうポップソングが、上質なアレンジでもっておさめられている。それは4曲目のSomething So Right、そして6曲目のAmerican tuneだ。この2曲に代表される質の高いポップスこそ、このアルバムの通底音ではないだろうか。「明日に架ける橋」ほど大げさではない。 American Tuneで歌われるアメリカは、mistaken, confusedといった言葉に象徴されるような疲弊したアメリカである。しかしそれでもTomorrow's going to be another working dayと歌われるように明日がやってくる。このささやかさがこのアルバムをつくったときのPaul Simonの気持ちではないだろうか。

 だからこのアルバムは奔放な音楽探究の旅とは到底言い難く、たとえば自分の子供のためにつくった子守唄、St Judy's Cometが、Paul Simonのプライベートな心情をつづっているように、パーソナルな小品をまさにアルバムジャケットの様々なオブジェのように集めたイメージが強い。 Something〜も、パートナーにあてた感謝の気持ちをこめたラブソングだ。このように自分の生活に向き合っている姿を素直に眺めれば、様々な音の意匠はまさに飾りで、そこには音楽を丹念に生み続けるひとりの才能あるアメリカの音楽家の姿が浮かび上がってくるのではないか。イギリスにPaul McCartneyがいるように、アメリカにはこのPaul Simonがいる。そして何よりもこの2人のポールの曲は思わず口ずさみたくなるほど、親しみがあり、それでいてきらめくほど美しい。

 ところで、06年の紙ジャケにはボーナストラックがはいっているが、これが最高によい。あらゆる意匠をとりさった、原曲だけが歌われている。

John Cale, Paris 1919 (1973)

paris1919.jpg 「これ絶対気に入りますよ」と、大学時代に後輩が貸してくれたレコードは、Small FacesのSmall Facesと、The WhoのSell outと、John CaleのこのアルバムParis 1919だった。ロックは前衛であるだけではなく、一線を引いたところにもロックを探求したレコードがあるのだと、気づかせてくれたのがこのアルバムである。Velvet Undergrandを信奉したり、Lou ReedのBerlinをやたら褒めそやすのではなく、喧噪のその後にも、たとえポップな音楽であっても、「前衛」でありつづけることができる、 Velvetのようなスタイルをとらなくても、禁欲的に「ロック」であり続けることはできる、それに気づかせてくれたのがJohn Caleである。

 今あらためて聴き直してみると、オーケストラの入り方が過剰で、仰々しいのが耳につく。脳天気な曲もあったりして、John Caleの「転向」は果たして正しかったのかと疑問に思わないでもない。

 しかしJohn Caleが作りたかった、クラシックとは違う世界での「美の世界」、Roxy MusicやT-Rex、あるいはDavid Bowieのようなまがまがしい見せ物とは違うレベルで追い求めようとした美の世界が、ここにはある。その意味でこのアルバムは、ロックがアンディ・ウォホールが口出しするようなまがいものではなく、ひとつのジャンルとして認識されうる標準まで達したことをきちんと証明してくれるアルバムであると言える。

 Lou Reedは「インテリになりたかったやくざ」、John Caleは「やくざになりたかったインテリ」。確かにJohn Caleの音楽は、その品の良さからいえば、インテリの遊戯なのかも知れない。表題曲などは確かにオーケストラを導入して、きわめてインテリぽく作られていて、鼻につくかもしれない。でもこれを聞いていた当時の僕は、たとえ寝そべって聞いていてもロックは存在し続けるのだと、考えていた気がする。それは今から考えれば、早くも60年代半ばにたとえばThe KinksがSunny Afternoonで描いていた世界だ。しかもThe Kinksは70年代にはいってもしつこくその世界をMirror of Loveのような曲で何度も念を押す。John Caleも、Velvetへの反動なのか、Lou Reedへの敵意なのか、そのけだるさを全面的にロックとして演奏してはばからない。その決意がこの70年代初頭の動きだったのだろう。しかしこのけだるさは、けっしてこの時代だけにとどまることはない。ロックを聴き始めて、正面切った反抗だけがロックではないと気づくとき、日常の生活の中でもロックを聞き続けようと思うとき、John Caleの作り上げた様式美もひとつの地道な営為だと思うのだ。