イヴァン・ジャブロンカ『歴史は現代文学である』第8章「方法としてのフィクション」(2014,2019)

 ジャブロンカは、この章で、フィクションの意味を再定義することにより、文学と歴史の違いという古くからの問題にあらたな提案をする。作品が現実をどう参照しているかという現実世界と作品世界の関係性の問題としてのフィクションではなく、ここで展開されるのは「方法としてのフィクション」である。言い換えれば、文学であっても、歴史であっても、そこで言述される世界の現実世界への参照の問題ではなく、言述そのものに内在するフィクションの機能の問題である。その機能は、ある特別な言述行為に特有のものではなく、言述行為自体が本質的に備えている機能であり、その限りにおいて、文学であろうと歴史であろうと、およそ語られるものには、そのフィクションの機能が必ず認められる。

フィクションの地位
 ジャブロンカはまず文学理論が提唱してきたフィクションの「対象」について整理する。自動詞的、他動詞的という考え方である。自動詞的とは、フィクションが参照する現実をもたず、自律した世界を構成している、したがって、真理は「フィクションの真理」であるという考え方を指す。これにはもちろん反論があり、私たちは文学を読むことで、その舞台となる現実を理解したり、主人公を通して、人間の偽善や倒錯といったスキャンダラスな世界を実際には知ることになる。

 他動詞的とは、世界を参照系にもつフィクションのことである。フィクションはどのような形であれ、世界を写し取って成立している。参照するのは現実の物理的世界とは限らない。「社会(...)心性、時代精神について何かを述べ」、現実の人物をモデルとし、現実の作家の「心理や、教養や、心情...」などを反映する。

 だが他動詞的な読解は、困難にぶつかる。それはフィクションが現実に対して取る関係による3つの区別からうかがえる。
(1) 信じがたいもの。いわゆる見たことのないもの、空想的なフィクション。
(2) 真実らしいもの。そのフィクション世界を信じられるか/られないか、という二分法であり、これは読者の基準で変動する。
(3)「上級の真理」。これはフィクションがあまりに現実的であるので、フィクションの世界がむしろ現実世界を覆ってしまうような事態である。さらにいえば文学だからこそ暴けるものもある。

啓示としてフィクション
 ジャブロンカは自動詞的な考えは「閉鎖性」が問題となるし、また他動詞的な考え方は、小説が、現実を指向対象とする以上、「鏡としての文学」になってしまうと、その不十分さに言及する。その上で、ジャブロンカは、現実とフィクションについて、「ミメーシスには属さない」関係を指摘する。それが「啓示としてフィクション」であり、それは、「現実を読み解く」鍵となる。具体的には、「叙事詩、神話、詩、アレゴリー、シンボル」である。たとえば時に詩だけが、「言葉にならない経験を伝えることができる」。アレゴリーは、例え話によってよりよく真理を伝える。シンボルは、象徴化と言った方がわかりやすいかもしれないが、「実在はしないものの、完全に実証されたある社会的事実を体現する類型的人物」に何かが体現=象徴化されていることを指す。

 ここまでジャブロンカが主張しているのは、「フィクションをミメーシスから引き離し、知識のプロセスに組み込むこと」であり、フィクションを行為の再現ではなく、事実を解明するための論理、「世界についての知を組み立てる道具」として考えるということである。

離反
 この「事実を解明するための論理」が、「方法としてのフィクション」である。これは小説がフィクションであるというフィクションとは次の三つの点で異なる。
(1) それはフィクションとして示されている、つまり自分自身を告発している。
(2) それが現実から遠ざかるのは、より強力になってそこに戻るためである。
(3) それは遊戯的でも恣意的でもなく、論理によって操作される。
 このジャブロンカの主張は、フィクションであると明示しながら、論理構成をすることによって、現実に対する認識がより明晰になっていくということを示しているだろう。

 その「方法としてのフィクション」の機能として4つのグループが挙げられている。一つ目が「離反」である。これは、現実に対して距離を取ることであり、たとえば引用されているようにロシアフォルマリストたちの「異化」と同様のプロセスであると思われる。ジャブロンカは、加えて離反を生じさせるものとして、「拒絶」と「驚嘆」を挙げている。拒絶は、理解という前提そのものを問題視する。驚嘆は、この世界を新たな相貌のもとに受け止めるということだろう。これは文学だけではなく、「刷新としての歴史」ともなる。

信憑性
 信憑性は、文学においては、その世界に同意して、「不信を停止させて」その世界を受け止めるが、歴史の場合は、「あらゆる知識を考慮」に入れた、確かな可能性の意味となる。それはヘンペルの「蓋然性仮説」と同様にみなすことができる。また歴史は「起りえたことやおそらく起こった」ことも言明する、とジャブロンカは主張する。

概念と理論
 ジャブロンカはここで、「概念」も、「現実を概念化」する以上は、「現実のフィクションである」とみなす。また、社会科学の論理における、モデルや理念も、「現実とは無関係な構成物」であって、それは、現実とのずれを測るための存在であると主張する。また、メタファーや抽象概念も、方法としてのフィクションであるが、それによって、現実を明らかにするのに役立つ。

 ジャブロンカはこうした行為を論理操作として考えていると思われるが、視点を言述にうつせば、こうした機能は、言述行為そのものにそなわっている、私たちがより明確に理解するための言語の本質的な機能と言えないだろうか。
 ジャブロンカは、たとえば、1930年代の移民・難民に対して、「sans papier」を使って説明することも、ひとつの「知的制作」であると主張する。ここには概念とその概念適用という「方法としてのフィクション」が働いている。

叙述の手法
 叙述の手法とは、ナラティブ=語り手の地位、読み手を誘う焦点化、選択の結果としての言表などの問題である。例として引かれるのは、シンボルによる叙述である。マーカス・レディカーの『奴隷船の歴史』では、奴隷船と人間についての焦点化がなされている。また言述は、必然的に選択の結果である。「ヒトラーがポーランドに侵攻した」という、三人称的=無人称的な語りの中にも、「総統の決断を前面」に出すための選択の結果である。

 語り手については、たとえば「死語の対話」のように死者に語らせる手法がある。またアラン・コルバンの『知識欲の誕生』のように、「十九世紀の田舎教師の中に」入り込むこともある。

フィクションを活性化する
 以上見てきたように、ジャブロンカにとって、フィクションは「手法」であり、その手法によって、「知識の生産」が可能となり、「仮説を立てたり、概念を動員したり、知を伝達したりすることで、人間が実際に行うことを理解するのに役立つ。」そしてジャブロンカは、歴史は「古文書学的な想像力や、独創的な着想や、大胆な説明や、叙述における発明を必要とする知的冒険である」と言う。

 この考え方によって、フィクションはもはや文学と歴史を対立させる概念とはならない。この手法としてのフィクションは文学作品の中にも歴史の中にも多かれ少なかれ認められるのだ。
 では歴史と文学は区別がなくなってしまうのか。ジャブロンカは「歴史は文学の一形態」であると述べているが、それでも、これも本人の言うとおり、歴史は「調査によって周りを固められる」場合に、文学から少し離れるのではないだろうか。
 ジャブロンカは最後に次のように述べる。
 

一方には、断定的で、遊戯的で、惰性において面白いフィクションがある。他方には、仮説や、概念や、問題の表明や、論理の連鎖や、叙述の形式といった、方法としてのフィクションがある。

 作品の文学性、歴史性は、したがってこの2つのフィクションの傾向の度合いによるのだろう。

 ジャブロンカは、ペレックの『Wあるいは子供の頃の思い出』に言及する。この作品は、2つの物語が交互に語られる形式になっており、通常は、フィクションとしての物語と、子供時代の自分を語る現実の作者が登場する部分と考えられる。しかしこのフィクションとしての物語が、ペレックが子供の時に書いた「私の子供時代の物語」であるとわかるとき、この物語はもはや創作としてのフィクションの物語ではなく、子供時代の自分自身についてのアルシーヴへと変化する。反対に、「現実」の部分は、実は「フィクション」に満ちているのだ。『W』は、自分自身に関するアルシーヴについての調査として読むことができる限りにおいて「歴史書」なのである。

 また『ショアー』についても、この映画におけるアルシーヴの不在は、方法としてのフィクションの実践であり、それは「過去についての月並みな物語に反対するため」なのである。「現実についてのフィクション」によって、現実を明るみに出しているのが『ショアー』なのだ。

イヴァン・ジャブロンカ『歴史は現代文学である 社会科学のためのマニフェスト』(真野倫平訳 名古屋大学出版会 2018)