Emile Benveniste, «Nature du signe linguistique», in. Problèmes de linguistique générale (1969)

 この論文が発表されたのは1939年、バンヴェニストが37歳のときである。わずか6ページ半の小論だが、ソシュール思想の根幹をなす恣意性の問題を正面切って取り上げ、以後大きな論争を巻き起こした(加賀野井秀一『ソシュール』pp.91-111.)。

 ソシュールが一般言語学として探究したことは「記号の体系」の構築であり、それはとりもなおさず、シニフィアンとシニフィエとの絆とは「音声形象」と「概念」の絆のことであって、「ことば」と「もの」との関係ではないということであった。シニフィアンとシニフィエとの絆は、あくまでもラング内部のものであり、ラング内部の事実である(加賀野井, p.106.)。この外部の事物(言語外的世界)を捨象し、記号の体系として独立した構造を提起したことで一般言語学の輪郭がはっきりとする。

 メショニックは、signe「記号」とsymbole「象徴」を比較し、前者は「事物の不在」であり、象徴は言語と事物との聖なる合一であるとして、事物と関わりに記号と象徴の対立点を求める。(Henri Meschonnic, «Le signe-absence dans le discours du mythe», in. Le signe et le poème)。メショニックはバンヴェニストを引用しながら(「外の現実が『座標軸』である」)、言語学者がこの座標軸を外の現実に求めなかったことで、学を形成してきたとする。

 バンヴェニストが取り上げるのも、本来ならば記号の体系の中から事物を放擲したはずであるにもかかわらず、ソシュールが不用意にも、事物と名づけの問題に記号の問題を還元してしまっているという点である([ブフ]というシニフィアンをもつシニフィエ「牛」は、国境を越えると[オクス]をもつ)。バンヴェニストはそこからそもそも記号の恣意性が言えるのは、記号と現実の関係のみであるとする。つまり、外的現実をどのように名づけるかという問題においてのみ恣意性が成り立ちうると問題を集約させる。バンヴェニストにとっては、「恣意性は(...)記号の構成そのものの中には入り込んでこない」(p.53.)のであり、また、ソシュールの不用意さは、プラトン以来続けられてきた「自然か人為か」という問題から抜け出せていないと映るのだろう。バンヴェニストは、言語学者は「当面」この問題に関わらないほうがよいと言う。

 バンヴェニストは記号の体系の根拠をもう一度、「シニフィアンとは音響心像、シニフィエとは概念である」と確認したあとで、その両者の関係は「必然的nécessaireである」と説く(p.51.)。シニフィアンとシニフィエは、「同じ観念の2つの面」であり、またまさにソシュールが紙の裏表で例えたように、言語記号は「ひとつにまとまって構成されていること」を強調する。

 バンヴェニストは、このソシュールが提出した原理から派生する2つの問題に言及する。1つは記号の不可変性と可変性の問題である。バンヴェニストは、これは記号の、すなわちシニフィアンとシニフィエの関係における問題ではなく(なぜなら、記号においてはシニフィアンとシニフィエは話者にとって常に同時に立ち現れてしまうから)、記号と事物の関係における問題であるとする。つまりは名づけ、意味作用の問題である。
 2つめに挙げるのは「価値」の問題である。ここでもバンヴェニストは重ねて、ある分たれた音とある概念の選択は恣意的ではないと強調する。ソシュールの「価値の観念は、外部から課された要素を含んでしまう」ということばを取り上げ、ソシュールの推論が「座標軸」として「客観的現実」を選択していると指摘する。

 バンヴェニストは、「言語に内在する偶発的な部分とは、現実の音的象徴としての名づけに関わる部分であるが、記号とは共存するシニフィエとシニフィエを内包する言語体系の根源的要素である」と結論づける。

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 この議論で問題になるのは、本質的には恣意性か必然性かどちらかを選択することではない。むしろこの対立軸を示すことで、恣意性を切り捨て、それによってバンヴェニストは、言語の問題から対象世界を完璧に放擲することを考えたのだ。何のためか。それは一般言語学の対象を画定するためである。

 ただし、それによって現れる記号の体系は、必然性の=反省のともなわない、取り決められていることによって主体が介在しない静態的なものとなるだろう。この問題への解決がsémantique、およびそこに現れる主体に言語の動態化だったのではないか。

 だが、ここで文学言語へと問題をずらすならば、当然ながら対象世界と言語の問題を扱わざるをえない。しかも文学においては、その対象世界とは、私たちが生きるという意味での生活世界と、作品が構築するフィクショナルな世界(作り事、うそという意味ではなく、作品内部に構築される世界)の相互性を考察せざるをえない。これも当然のことだが意味と対象世界の関係には真偽の関係がついてまわるが、文学世界は真偽の関係では解きえないからだ。だから、この整然とした記号の体系を越えて、言語と関わる必要がある。

 バンヴェニストはsémanitiqueによって主体と意味生成を、言語の領域にとどまりながらすくいあげることを考えた。意味を生み出すことは、おそらくすぐれた文学作品の条件のひとつであろう。ならば、現実世界に関わりつつも、意味を生み出し、しかしあくまでも言語によって構成される世界を内包する文学作品(しかもときにその世界は、現実世界を穿ち、更新させうる力を持つ)の言語的特質をどう引き出せばよいのか。問いの照準をここにあわせなくてはならない。