Henri Meschonnic, De la langue française, chap.6 «On croit qu'on parle de la langue, mais on parle de la littérature», 1997

 言語について考えることは実は文学について考えることである。この言語と文学の混同は長い歴史を持っている。まずはデュ・ベレーの『フランス語の擁護と顕彰』においては、「フランス語がギリシア語、ラテン語と比肩しうるためには、ホメーロス、デモステネス、ヴェルギリウス、キケロの作品と同じものを生み出さねばならない」、「詩人と散文家は、フランス語の殿堂を支えるふたつの柱である」といった主張が見られる。
 次に言語について語ることが、作家の名において語る、すなわち文学について語っている事象を取り上げる。ヴォージュラは正しい話し方は、「その時代の作家の最も正しい書き方にしたがって話すことである」といい、ブウールは、「優れた作家の文体には調和があり、その点においてフランス語はギリシア語、ラテン語に匹敵する」と言う。ヴォルテールの百科全書における「フランス語」の項目は、実際には作家について語ることに終始している(モンテーニュ、ロンサール、マレルブ・・・)。それは言語学者も同様である。メイエは、言語を豊かにするためには、作家の創意工夫によって、語が十全の価値を持つ事が重要であると考えていたし、バイイは、一見言語と文学の混同を厳しく断じているが、メショニックはたとえば次のような一節に、やはり混同の影を見つける。「間違った考えの源泉は、固有言語と、その固有言語が乗せて運んでいる文学作品の絶えざる混同にある」(une source intarissable d'idées fausse découle de la confusion perpétuelle entre un idiome et les oeuvres littéraires dont il est le véhicule)。このvéhiculeという語にメショニックは混同の根拠をみる。
 言語の領域から文学を除いているようでいながら、文学が顔をのぞかせる矛盾はアカデミー・フランセーズの辞書にも見られる。その第一版には、辞書の中に引用を載せていない理由は、「散文家や詩人がすでにこの辞書のために十分働いたからだ」と言う。文学言語はないが、言語そのものの定義が文学者によって作られているのだ。
 ある言語の優等性は、文学によって支えられる。特に18世紀にはその傾向が顕著で、デュボス、ヴォルテール、ディドロ、ボーゼなどフランス語の優等性は、完成された文学を持っていることによって保たれるとする。またフュルティエールやコンディヤックは、優れた作家によって言語ははっきりとした形をとるとする。だがこうした考え方は当然ながら文学を伝統の象徴とし、保守主義の動きと一体化するのだ。
 続いてメショニックはコンディヤックにおける言語の精髄と作家の果たす役割について言及する。すなわち言語とは民族の精神を表出するものであるが、その言語を進歩させて完成に近づけるのは作家の役目である。と同時に、作家はつねに新たな表現を紡ぎ出す存在でもある。
 こうして文学と言語を混同する考えは、文学に最高の規範を見出すことになり、そこに言語ヒエラルキーが形成されることになる。